オタワ・プロセスへ



1996年1月に、非公式に開かれた会合は、NGOと対人地雷禁止に賛成する国とに、全面禁止へむけての新しい小さな光をもたらしました。

カナダ政府の代表としてこの会合に出席したボブ・ローソンさんは、地雷禁止推進国のリストを見たとき、この流れが将来大きなうねりになると、確信します。そして、南と北の国々の橋渡し役が必要になると考え、カナダがその役割を果たせないかと考えたのです。

ボブは、カナダに帰ったあと、ロイド・アスクワージー外相に、政策提案書を提出します。
カナダはその時点で、1993年から政権が代わり、96年に就任したアスクワージー外相は、親米色だった前政権とは違った外交政策を模索していました。
政策議定書では、カナダが国際会議を主催すること、専門知識や経験が豊かなNGOと協力していくべきこと、カナダも政府の交渉団にNGOをふくめること、を進言したのです。

アスクワージー外相からの返事は、「YES」の3文字でした。

1996年4月22日、CCW再検討会議が再開された日の夜、ジュネーブにあるNGO団体、クウェーカー国連対策事務室で、二回目のNGO・政府合同会合が開かれました。
そこには、14ヶ国の政府代表団が出席したのです。
それ以外に、メキシコ、カンボジア、フィリピン、スイスの政府代表団は参加を希望していたのですが、日程の都合などで参加できなかっただけでした。
つまり、18ヶ国が、この会合に賛同していたのです。

この会合の山場で、カナダ政府代表のボブが、こう切り出しました。
「カナダ政府は、今年秋、オタワで地雷禁止推進国による会議を開催しようと考えています」

さて、この流れと同時進行で、オタワ条約の草案、「オーストリア案」を懐にあたためていた人物がいます。オーストリア政府代表団の代表を務めていたベルナー・アーリッヒ大使です。
1996年1月のCCW再検討会議で、CCWへの不信感をアーリッヒ大使は感じていました。
「対人地雷禁止だけを個別に扱う条約を想定して、そこに含まれるべき点をまとめ、地雷禁止推進国やNGOなどの反応を見てみよう」と考えたのです。
1996年4月、CCW再検討会議の最中にジュネーブのホテルで条約の下書きをします。これは、全く大使の個人的な条約案でした。
その案を数人のNGOメンバーに見せたのです。
その案を見せられたNGOメンバーのひとり、クウェーカー国連対策事務室のデビッド・アトウッドさんは、クウェーカー事務所で1996年6月に開く会合に、大使を招待したのです。

1996年6月11日、オタワの会議にむけた基本方針を決めるため、NGOと政府による昼食会が、クウェーカー国連対策事務室で開かれました。
アーリッヒ大使も交え、10名弱の人たちによる、非公式な会合での結論は、「CCWで全面禁止を模索するのは、非現実的な選択だ」というものでした。
CCW再検討会議以外の場で対人地雷禁止条約を作るとすれば、ジュネーブの国連軍縮会議が妥当な線でした。
しかし、この会議では核軍縮を中心に討議してきたので、通常兵器に関する条約を交渉した経験はありません。また、軍縮会議のメンバー自体、96年6月に61ヶ国に拡大されるまでは、38ヶ国と限られていたのです。
また、この会議は、CCWと同様、全会一致方式をとっていました。そして、地雷禁止を望む国がメンバーでないということもありました。
この時点では、秋に開催されるオタワ会議は、条約を制定するための会議とは考えられていませんでした。
ただ、アーリッヒ大使の草案は粗削りなため、これを軸に、この条約をもっと練り上げていくことが決まりました。

さて、最終的にはこの会合で次のような合意がみられました。

1 対人地雷禁止条約づくりでは、全会一致制をとらない
2 条約には最初から多数の国が参加しなくてもよく、条約を作ることに重点をおく

この時点では、国連を離れて条約をつくることは、誰も考えていませんでした。

会議を開催するカナダは、会議をどのような内容にするのか、何を目指していくのかを検討していました。
カナダ政府はこの段階では、オタワ会議は地雷禁止を真摯に受け止める国の、戦略会議だと考えていました。つまり、全面禁止に賛成している国のなかから本当に現実に行動したいと思っている国の数、また、早急に禁止の意欲をもっているのはどれだけかを、見極めたかったのです。



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