2000年 カンボジア旅日記  (7月19日〜7月31日)





三日目、いよいよプノンペンを離れ、バッタンバンに行く日が来た。
バッタンバンはカンボジアの東、タイとの国境に近い所だ。
つまり、ここからは本当の地雷原だ。
バッタンバンの畑の中に赤茶色の道が真っ直ぐに伸びていた。バナナ畑を通り過ぎると水田が左右に広がり、水牛が田んぼの中でのんびり動いていた。
のどかな景色が続いている。こんなところで同じ国の人同士で戦っていたのか。
すぐその足で、コサルちゃんの実家に向かった。この道がまた想像以上に驚いた。デコボコ、デコボコ。大揺れ。体がバラバラになりそうだった。
「まだあ?」「まだあ?」が何度も口から出る。遠いなあ。
やっとコサルちゃんの家に着いた。
「ええ!こんな大家族なの!」
車から降りると、大勢の人達が出迎えてくれた。おばあちゃんから赤ちゃんまで、14,5人位はいたかな。
聞いてみると親戚の人とか、近所の人までもが集まってくれていたそうだ。
ここの人たちは暖かいなと思った。
コサルちゃんの実家には次の日も伺ったが、この日と同じ沢山の人が出迎えてくれた。そして、私たちが帰るまでコサルちゃんの家にいてくれた。

コサルちゃんが被雷した場所に連れていってもらう。
「げげ、家からこんなに近い、近すぎる」危ない。家からほんの5〜6mだ。私がゴミ出しに行くくらいの距離だ。
コサルちゃんはまきを拾う為に家の裏の畑まで行っただけ。
人々は生活の為に地雷原の中にどうしても入っていかなくてはならないんだ。
生活に使う水は家の前の池の水を3つのかめに溜めて沈殿させて使っていた。
何日も沈殿させていると見た目にはきれいになっていたが、鶏や豚が水浴びしている池だった。
雨水が泥と一緒に溜まっているだけだから、細菌がうようよしているに決まっている。しっかり沸かさないと病気になるのは目にみえている。
「ここの人はお腹を壊さないのかな?。」
もし、病気になっても病院なんてない。街まで3時間、普通の人でさえ体が悪くなりそうな道なのに、これで被雷して大怪我で運ばれて行ったかと思うと、気が遠くなった。
コサルちゃんのご両親にコサルちゃんが被雷した時の様子を聞いてみる事にした。
すると、それまでにこにこ暖かく私たちを迎えてくれていたお父さんお母さんの顔が急にこわばり、黙り込んでしまった。
周りの人達もあまり話そうとしてくれない。
「こんなこと聞いてしまってごめんなさい。」
私はそれを言う事で精一杯だった。
辛い事を思い出させてしまった。
生と死の堺にいる我が子を発見し、どんな気持ちで病院まで運んだのか、家族には二度と思い出したくない恐ろしく悲しい事だったんだ。
今私たちは、怪我が治って奇麗になった傷跡しか見ていない。
皮膚がやぶれ、骨が見え、方々に飛んだ地雷の破片を体中に浴び、血だらけになっている人を見たら、その場で冷静になんかなれるはずない。
まして、自分の大切な家族なんだから。私だったらその場でぶっ倒れてしまっている。

村の人々は内戦のため住み慣れた家や村を離れて非難生活をしいられていた。
戦争が終わって村にもどったら地雷が埋められていた。
それも、何処に埋められたのかも分からず、ムチャクチャに埋められていた。
今でも村の人々には戦争は終わっていないのだ。
コサルちゃんのご家族とお別れする前に、日本から持ってきた折り紙で、折り鶴を作った。
驚いた、コサルちゃんは半年前に日本に来た時、私たちと折り鶴を折った事を覚えてくれいて、さっさと折り鶴を折って見せてくれた。
「ありゃま、凄い!」
「この鶴は、千羽折って糸を通し、病気や怪我が早く治ります様にとか、自分の願い事をするんですよ。」と、話している間にコサルちゃんのお父さんは一羽づつの折り鶴に糸を通し、軒下に吊るしてくれていた。
風に揺れてさらさら動く折り鶴は、いつかきっとみんなが安心して暮らせるカンボジアにしてくれる気がした。