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二〇〇一年 六月のテーマ  「父」


「羅針盤」

よく父と歩く姿を母に笑われた。

私は決して父の隣には並ばずに父の影を踏まぬ程度の距離を開けて足の速い父についていくらしい。それが母には微笑ましくも可笑しく映ったらしい。遠慮せずにどんと横に並んで歩けばいいと母は言う。ほんの小さな女の子のときには父と母に手を握ってもらい長堀橋の交差点をぶらんぶらんと運んでもらっては笑ったものだ。そんな幼いころには父の隣にいることはなんでもなかったのだが。父が一人の人間として私にいろんなことを話してくれるようになってから、少しだけ私は父の後ろを歩くようになった。

それは父を疎んじているのではなかった。私は父を尊敬しているし、今でもそうだ。

そう、私にとって父は羅針盤であった。そしてその想いは、今でも変わらない。

父は商売をしている関係上、夜が遅かった。特に決算のある時期は大変だった。今のようにコンピュータもなくポスも無い時代。店を数日閉めて棚卸するという時代だった。必然的に子供の私との接点は少なくなってしまう。朝起きるともう父は出かけており、私が床につく頃になってもまだ帰って来なかった。

しかし、そんな父と私にもたまに二人きりになる時間があった。

父の通勤時間と私の通学時間が重なるときがそうだった。

私は小学校からずっとバスと電車を使い通学していた。コーラス部の早朝練習や受験のための早朝講義を受けに行くとき、あるいはクラブ活動でいつもより少し遅くなったとき、バス停と自宅までのほんの数分を私は父と歩いた。ランドセルを背負っていたときもあれば、学生鞄のときもあった。

父の重い靴音の倍ぐらいの早さで、私の革靴の踵が鳴っていた。

そんなとき、父はお小言臭い話はせずに、自分が今読んでいる本やニュースなどの話をしてくれた。

長岡藩が他藩から送られたお米をもとに学校を作った話を聞いたのも、この時だ。杉浦千畝がリトアニアで外務省の反対を押し切り、自分の生命と進退をかけてユダヤ人へ命のヴィザを発給し続けたことも、その後免官となったことも知った。

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月にサダム・フセインが日時の期限を切り、その日時以降は民間航空機ですらテヘラン上空を飛んだ場合は攻撃すると宣言したことがある。各国の民間機は自国民を優先的に搭乗させたため、多数の日本人がテヘランを脱出することができず、孤立してしまった。外務省は日本航空に特別便を出すように要請したが、帰る際の安全が保証されないことから乗り入れを断念してしまった。新聞でもテレビの報道でも、もう残された日本人を救えないという色が濃く出ていた。誰もが駄目だと思っていた。
しかしその時、トルコ航空機がテヘランに乗り入れ、残された日本人を助けてくれた。
奇跡が起こったかのように興奮していた私に、父はトルコ航空機が危険を押しても飛んできたわけを話してくれた。
明治22年、オスマントルコからの使節団を乗せたエルトゥルル号が和歌山沖で遭難した。これを和歌山の大島の人々が必死に救ったのだ。生き残った使節団の冷え切った体を大島の人たちは自分たちが抱きしめて温め、非常食として蓄えていた薩摩芋やニワトリを食べさせては看護に努めた。残念にも命を落とした方は、手厚く葬ったのだという。トルコ政府は明治時代の恩に報いるべく、トルコは民間機を出してくれたのだということを、父の話から初めて知った。

今だけを見るのではなくその先を見つめることの大切さ、ただ自分の利害だけでなく人として判断することの大切さ。学校では習わない、人としての進路を父は短い時間の中で私に示してくれたように思う。

そんな父が心配そうに電話をかけてきてくれる。

青春を戦争の最中で迎えた父だ。その当事の政府の考えに逆らって生きた人がどういう目に遭っているかもたくさん見てきたという。「こんなときこそ、子供もいるのだから」と電話口で嗜める声が聞こえる。それに私が今住んでいるのは自分の母国ではない。何かあったらという父の心配が、痛いほどわかる。

「ありがとう、わかっていますから」と、そう答えながらも。

小さくてもいい、私も羅針盤として存在したいと思うのだ。


西暦二〇〇二年 弥生 吉日

雅世







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