喪失という文字を見たときに、私は、心の中に抉られたような痛みを感じた。
まだ、疼くその傷。でも、もうそろそろ、言葉にしても良い頃なのかもしれない。
私にとって、歌うことは息をするのと同じことだった。歌っていない私は、私ではなかった。
小学校2年生で、私は通っている小学校のコーラス部と、NHKが主催するコーラスグループに入っていた。
小学校のコーラス部は先生がとても熱心で、練習は、早朝練習があり、学校の授業が終わってからも、午後7時ぐらいまでやっていたと思う。しかし、そんな練習は、何の苦にもならなかった。歌声で音楽を作り、ハーモニーの楼閣を作るのは、私には、最上の時だったのだ。
しかし、翌年、私はこのコーラスグループを辞めなければならなかった。なぜならツベルクリンの結果がずっと良くなく、BCGを打っても、全く陽性にならなかった。その年は、体育の授業やプールまで休まなければならなかった。
小学校のコーラス部を辞めたいと練習時間の前に顧問の先生に言いに行くと、練習は、私にとっての修羅場に変わった。同じように辞めたいと言い出していた子どもだけが壇上に上げられ、その理由を言わされる。辞めることを断念した子どもは、他の部員の暖かい拍手で迎えられ、壇から降りることができた。
泣き虫な私は、なぜか、このときだけ泣かなかった。
両親は、この私に、結核が恐ろしい病気だと話してくれていた。結核で片方の肺を摘出していた父の友人も、私にアドバイスをしてくれていた。
両親より先に死ぬわけにはいかない。
冷たい攻撃は、一時間も続いただろうか。
みんなの冷たい視線と顧問の先生のため息を感じながら、震える手で自分の荷物を持ち、私は音楽室を後にした。
悲しい経験は、私をコーラスから遠ざけた。
そのかわりに、中学からバンドを始めた。
私は、いつでもヴォーカルをとっていた。
大学で出会ったメンバーは、素晴らしかった。
私は、そこでJAZZを歌った。
毎日が、輝いていた。
まるで、背中に翼が生えていたように、歌っていた。
しかし、こんな私を心配して見つめていた人たちもいた。
音楽など辞めて欲しいと思っていた人たちが。
両親と、その当時付き合っていた彼が、私を音楽から引き剥がそうとした。
結局、私は、負けた。
「お父さんとお母さんを、悲しませたいのか」
その彼の一言が、決定打になった。
背中の羽は、ぼきりと、折り取られた。
そのあと、私は、音楽を聞くと涙が出てとまらなかった。
その当時一緒にバンドをやっていた仲間たちは、ヤマハ音楽祭に出てメジャーデビューをするために合歓の里で合宿しているとも聞いた。
「大学を卒業したら結婚しよう」
そう呟く彼の声を、背中の痛みを隠しながら、素直に肯く可愛い女を演じていた。
大学4回生になったある日、彼の家で、彼のお母様が作ってくださる昼食を待ちながら、こんな会話をした。
「就職するのか?」
「ええ、もちろん」
「止めとけよ。どうせ、すぐに結婚するんだから」
その時、私はずっと喪失していたものを感じた。
自分。
自分で見、判断し、自分の足で歩むこと。その当たり前のことを、それまでの数年間、まるで封印したように避けてきた自分を。
結局、彼とは別れた。
なぜなんだと、みんなに聞かれた。答える言葉が見当たらなかった。
ただ、もう、自分を失うのは、嫌だったのだ。
今、私は、自分で自分の人生を生きている。
うがった考えかもしれないが、私を壇上に立たせた顧問の先生は、やはり、喪失するのを恐れていたのではないか。この頃ふと、そう思うのだ。
西暦一九九八年 神無月吉日
雅世
|