それでも


 何もしたくない時がある。

 何もかもが上手くいかず、下りの螺旋に絡め捕られて悪いほうへと全てが堕ちていく。いつもの主婦と母親というルーティンワークに疲れきり、自分自身を見失ってしまって、自分を幸せだと感じられない。こうやって生きていることに、なんの意味があるのだろうか。下手なエッセイや小説を時間を作り出してまで書き続けていても、一体なんの役にたつというのだろうか。時間と電気代の無駄遣いなのではないか。書き続けることに、意味があるんだろうか?

 そう、なにもせず、石のように蹲ってしまいたい。

 心が蝕まれたように干乾びていくのがわかる。空はあんなに蒼いのに、なぜか悲しい。

 そんな時、私は決まって一冊の絵本を開く。

 『木を植えた男』、フランスの荒野にどんぐりを植え続け、川を呼び戻し、豊かな森を一人で作り上げた男の話し。

 どんな困難に遭遇しても、その悲しみを一人きりで乗り越え、誰からの賞賛も求めず黙々と木を植え続けた男。

 ページをめくるごとに、私の心は感動の涙で潤され、胸のあたりに痛いような新しく洗われた心を感じながら、そっと涙を拭く。

 そして、この色鉛筆を何色も重ねて表わしたフレデリック バックの絵も、素晴らしい。彼は、アニメーターで有名だ。セルに色鉛筆で直接色を載せていく技法で、他の誰も真似の出来ない暖かみと淡さを持った作品を作り続けている。ほとんどの作品は彼一人で作成しているため、そのアニメーションの本数は少ないが、完成度は目を見張るものがある。彼は、気が遠くなるような枚数のセルを、たった一人で書き続けている。あの、木を植えた男のように。

 そのせいで、フレドリック バックは右目の視力を失っている。

 片目でものを見る。それは遠近感を掴めない。

 片目でものを見る。それは、いつか、左目の視力を失うかもしれないという危険性を孕んでいる。

 右利きの人は、だいたい右目が利き目になっているだろう。その利き目の光を失うことは、とてもショックだと思う。

 それでも、それでも、フレドリック バックは描き続ける。色鉛筆を持ち、セルに向かい、一枚一枚、絵を仕上げていく。今日もきっと、カナダにある彼の自宅で書き続けているのだろう。

 人はみな、フレドリック バックにも、どんぐりを植え続けたブフュエにもなり得る。人は誰でも、木を植えることが出来る。そのひとなりの木を、そのひとなりの土地に植えていくのだ。

 心が満たされていく。

 体の中を、新しい風が駆け抜けていく。

 こうやって、ここで生きていられること、そして、何かに触れて感動できる心があること、なんて素晴らしいんだろう。

 さあ、植えようじゃないか、私の木を、私の土地に。焦ることなく、止めることなく。

 そう、これは私の人生。私の、私が作る、大切な人生だから。




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