ビーツ
生まれて初めて、ビーツの皮を剥きました。まな板が、美しいマゼンタに染まっていきます。ビーツ、それは、ロシア料理で使われる、握り拳ぐらいの大きさの赤蕪です。
日本では、生のビーツにお目にかかることはありませんでした。だから、田舎風のボルシチを作るのは、諦めていたのです。でも、この前の日曜日、とうとう近所の「PWマーケット」で見つけることができました。やっと、ボルシチに挑戦できると思って、一束買ってきました。
お料理の本の中で、私のお気に入りは、入江 麻木さんの『お料理はお好き』です。
この本のお陰で、私は、キャベツ臭くないロールキャベツを作れましたし、コロッケのバリエーションも増やせました。そして、いつか挑戦したいと思っていたボルシチのレシピも、この本に載っていました。
でも、この本に惹かれる一番の理由は、そこに載せられた入江さんの何気ないエッセイのせいかもしれません。
入江さんのお嬢さんのヴェラさんは、ボストン・フィルのマエストロとして有名な、小沢 征爾さんの奥様です。ですから、入江さんは年に二回、お嬢さん夫婦とお孫さんに会うために、アメリカに行かれたそうです。そして、到着するやいなやキッチンに入り、みんなが美味しいという料理をせっせと作り始めるのです。帰る間際には、ジャムやクッキー、シチューをたくさん作り置きして、冷凍してから、日本へ帰るのだそうです。
そのシチューも一ヶ月ほどで底を尽き、ヴェラさんが決心して作っても、決してママの味にはならなかったそうです。でも、失敗してしまったヴェラさんの言葉に、胸がキュンとしました。
「また作ろうと思っているわ。だって、シチューを煮込み始めると、キッチン中にいい匂いがして、何だかママがすぐそばにいるような気がするんだもの。なつかしくて、嬉しくて、少し淋しいけれど……」
入江さんは、淋しさを隠して、こう応えています。
「そう、それじゃ、今度行った時は、その評判の悪いシチュー食べさせて……」
私の母から聞いた話しですが、初め、ボストンで家族一緒に暮らしていた小沢さんは、奥様とお嬢様を、日本に還されて、別々に暮らしていらっしゃるとのことでした。お嬢様には、日本人として育って欲しいからそうされたのだそうです。
さて、私は、私の主人が行く所、どこにでも着いていきたいと思っています。
結婚して初めて主人に首を縦に振らせた約束が、たとえ北極で暮らすことになっても、連れていって、でした。
子供の将来を考えれば、夫婦が別居したほうがいいこともあるでしょう。でも、私は、きっと子供を連れて、主人にくっついていくでしょう。
家族は、一緒に暮らさないと、家族になっていかないと思います。ただの血の繋がりだけでは、家族ではないと思うのです。
でも、一番大きな理由は、主人は私にとって何にも変えられないほど、大切な人だから、でしょう。
子供はいつか、私から離れていきます。
私にとって、大切な人は主人であり、できるだけ主人との絆を大切にしたいのです。人間、最後は自分一人かもしれません。でも、何かの縁で夫婦になった人ですから、誰よりも大切にしていきたいのです。
でも、子供は親を選べないので、私の子供たちは貧乏くじを引いてしまったかもしれませんね。ごめんなさいね、子供たち。それでも、私はあなたたちのパパに着いていきたいのです。
私が望むことは、私の命の灯火が消える最後の瞬間まで、私らしく生きるということです。そして、私を親として生まれて来てくれた子供たちが、自分の生き方を見つけて、自由に羽ばたいてくれることです。
子供たちの足枷だけにはなりたくない。それは、主人と私の共通した意見です。
子供たちよ、世界は広い。でも、ある意味では、狭いです。
日本人として、日本で生きていくだけが、たった一つの道ではないように思います。
考えなさい、自問自答しなさい、答えは必ず、自分の中にあるから。
自分を信じて、心の赴くまま、羽ばたいておいきなさい。
ボルシチが煮えてきました。
ボルシチにビーツを入れた直後は、まるで水が上がった青梅の中に、塩で揉んだ赤紫蘇を入れたのと同じ光景でした。透明の液体に、美しい濃いピンクの液体が絡み合いながら一つに溶けて、色を濃くしながら染まっていきます。
小さい頃からずっと手伝い続けてきた梅干し作り、結婚してからは、もう何年も母の手伝いをしていません。
私を手元に置いておきたい一心で、一時は関西から関東に嫁ぐという理由だけでこの結婚に反対した両親。そんな両親を残して、私はアメリカなんぞに来てしまった親不孝者ですね。ごめんなさい、父上、母上。でも、……私はここで自分の人生を紡ぎだしています。
年老いてきた私の母は、今年も、いつもと変わらないように、梅干しを漬けるのでしょうか。
滲んで見えたマゼンタ色のシチューは、湯気のせいだったのでしょうか、それとも、涙のせいだったのでしょうか。……母の顔がダブって見えてしまいました。
久しぶりに、日本に電話をしてみましょう。母上の漬けた梅干しが食べたいと、ちょっぴり甘えてみるつもりです。
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