家庭科、それは私が中学、高校と学校に通っていたとき、一番苦手とする科目だった。いやはや、手縫いはよいがミシンが怖かった。勢い良く動き出す電動ミシンで、手を縫う悪夢をよく見たものだ。洋裁を学び、その関係の仕事にも就いていた母からは、よく下手なことを見咎められ、挙句の果てには代わりに提出予定のパジャマやワンピースを縫ってもらう始末だった。正直、大学に入って家庭科からきっぱりと縁を切れたのは嬉しかった。
しかしだ、その家庭科は思わぬところで私の後を付きまとうことになる。子供の幼稚園入園、それはもがいてもあがいても、幼稚園バッグだのコップ入れだのお弁当袋だの、こまごましたものを期日までに縫っていくという母親への宿題で再現した。その後、もしも日本で小学校に上がっていたら、給食袋、体操袋、雑巾など、またまた縫い物をしなければならなかっただろう。
しかし、縫い物というものも、趣味になってしまえば、点数もつかず、先生からのお直しもなく、気軽に取り組めることがわかった。大学生で自分のオーバーコートを初めて毛糸で編んでからというもの、だんだんと編み物や縫い物に対する苦手意識は薄れていった。それに、このごろは作っていく過程を写真で説明している本が多いので、下手な説明を図無しで受けるよりは、ずっと理解するのも簡単だった。
2003年の秋、友人からアメリカ50州のキルトを一緒に作らないかと誘われた。キルトといっても、四角いパターンを縫い合わせるものではなく、アップリケでアメリカの地図を布で作っていくというものだ。友達はすでに模造紙に地図を印刷したのを持っており、コピーさせてもらうことにした。何の気なしに、「やってみましょうか」と言ったものの、完成させられるかは自信がなく、新しい布を買うのも気がひけたので、今まで持っていた残り布を使うことにした。
以前母からたくさんの残り布を貰ったことがある。風呂敷に包まれたその残り布を開いてみた。それは、私の実家の歴史書でもあった。祖母の着物、母の着物、お客さん用の布団をしつらえた布、私の宮参りの着物、7歳ぐらいのときに母が縫ってくれた着物。手にとるごとに、その布にまつわる情景が浮かんでくる。赤い紅絹もある。母の肌襦袢の残りだ。南向きの日のあたる部屋で色白でちょっと小太りの母が衣擦れの音をさせながら着替えているのが、今でも目に浮かぶ。7 歳で母が縫ってくれた振袖、これは母には似合う色だろうが私には似合わなかった。羽織ってみては、顔をちゃんと洗ってこなかったと怒られ、何度も脱がされては洗面所に顔を洗いにいった。最後はこちらはもう涙顔だ。明るい浅葱の地に折り鶴が飛ぶ柄はとても気に入ったのだが、今でもその色は私の顔色をとても黒く見せる色だ。
いろいろな思い出がこもった布。ちょっと鋏を入れるのに数秒の迷いがあったが、また別の形で生まれ変わるのだからと自分に言い聞かせ裁っていった。
同じキルトを、教室に通っている人はだいたい3ヶ月で仕上げるという。でも、急ぐこともなく、ゆっくりと仕上げていった。子供の宿題を見ながら、あるいは友達の家に集まっておしゃべりしながら。3年はかからなかったが、完成までに2年と7ヶ月はかかった。でも、その長い時間は楽しい時間でもあった。口先では「縫い物は嫌い」と言いながら、しっかりと手にとった布を見ながら思い出と語り合う。一針ごとに布は一つの形を作っていく。これこそ至福の時間と言うのではないか。
「なぜパッチワークをするのか?」と男性に聞かれたことがある。一枚の美しい布を鋏で細切れにするのはなぜか、という問いだった。
一枚の布地はそれだけで美しい。それに反対はしない。でも、パッチワークはカレイドスコープ、万華鏡と同じなのだ。一つだけの布地の世界では見られない、いろんなハーモニーが存在する。そこに、思い出や希望を自分の気持ちを縫いこんでいくことができる。
今度は、母が昔私のために刺繍してくれた鏡掛けをタペストリーにしようと思う。周囲のパッチワークはあっさりと、1インチのブロックにするつもりだ。その中に、娘の幼稚園のときの鞄の残り布や、私が5歳ぐらいのときに着ていたワンピースの布、母に手伝ってもらったパジャマの残り布も入る予定だ。
小さな小さな残り布にも、家族の歴史がある。それがまた形を変えて生まれ変わるとすれば。
パッチワークは気持ちを布で綴ることなのかもしれない。
July 11, 2005