国旗


 アメリカ人は星条旗をこよなく愛している。
 例えば大きな公園には必ずと言っていいほど、国旗が掲揚されている。小学校や、中学校、高等学校の敷地にも、必ず星条旗が毎日たなびいていて、子供たちを見守っている。
 小学生のときにアメリカで数年間過ごしたことのある私の友人が、こう言っていた。
「毎朝、星条旗に向かって、右手を左胸に当てて、忠誠を誓うんだ。その時、日本なら日直に当たる子が、小さな星条旗を掲揚するんだけど、それって、とっても栄誉のある仕事だったんだ」
 遠い国の教室で毎日行われる行事。かっこいいな、などとミーハーな気持ちは浮かんできたが、日本で生まれ育った私が、日の丸に対して同じ事が出来るかというと、何だか恥ずかしくて、「NO」だった。その時、人種も習慣も全く違う人たちが結束するのには、星条旗に忠誠を誓うことが一番の早道なのかもしれないと、ぼんやりと考えていた。
 七月四日の独立記念日、何気なく自動車で通り抜けた閑静な住宅地で、私は驚かされた。
 ほとんどの家で、星条旗が七月の風に優しく揺れていたのだ。
 その光景は、なぜか私の心を抉り取った。
 私の子供の頃は、祝日に日の丸を掲揚するのは、ごく当たり前のことだった。一軒家の門には必ず、国旗を掲げるための金属製の輪が付けられていた。祝日の朝一番には、父が必ず日の丸を揚げに行った。どこの家でも、それが当然のように行われていた。今から、三十年ほど前のことだ。
 今では、祝日に日の丸を掲揚している家など、ほとんど見かけない。どうして、何が変わってしまったのだろう。
 私がまだ小学生だった頃、卒業式や入学式に日の丸を掲揚するか、君が代を歌うかどうかで、学校で論争が起こるというニュースをアナウンサーが伝えていた。先生と思われる人が、日の丸を卒業式の壇上から引き千切る場面をテレビで見たのを鮮明に覚えている。今でもあの論争は続いているのだろうか。
 その記憶のせいか、『日の丸』や『君が代』は、右翼の黒塗りの改造自動車が大音響で流して大通りを走り回るイメージと重なって、係わってはちょっとヤバイもの、という意識を私に植え付けた。悲しいけれど、何だか辛気臭いと感じてしまう。
 でも、今の私は、自分の国を誇りに思い、国旗や国歌を大切にすることは、とても素晴らしいことだと思っている。国旗を掲揚したり国歌を歌うことが、直接軍国主義に繋がるとは思っていない。
 それよりも、自分の国の国歌や国旗、そして自分の国自体に誇りを持てないほうが、よほど恐ろしく不健全な事だろう。
 もし、アジアの他の国にそんな態度を批判されたら、後は態度で示すしかないだろう。ただ、自分の国のことを誇りに思っているだけで、それがあの鬼のようにアジア各国を占領していた日本に後戻りするわけではないことを。
 もし、君が代という歌の歌詞が天皇を褒め称えるので抵抗があるというのなら、国歌を変更してしまえばいいのに。日本の美しい四季や、木目細やかな感情を持つ人々が暮らす国のことを、詠にすればいいのに。
 でも、どこかの国のお偉い様は、『前例がございませんので』と言うのだろう、きっと。
 国歌なんて、相撲の決勝戦の後に流れる曲に成り下がってしまっている。
 でも、日本って、誇れる国なんだろうか、日本国民にとって……そうあって欲しいけれど。
 今日も抜けるような青い空に、星条旗ははためいている。



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