もっと自然に


 生まれて初めて「健常者」という言葉を耳にしたとき、とても不快な気分になった。なんだがすごく奢り高ぶっているように思えたからだ。
 今でも「健常者」という漢字も、その言葉の音も大嫌いだ。
 日本語の中にはかなり外来語が浸透している。特に英語は義務教育で習うので、その浸透ぶりは他の言語の追随を許さないほどになっている。
 でも、なぜか英語を使うと、そのものがかっこ良く思えたり、ふんわりとオブラートに包まれたような錯覚を起こさせる。
 例えば「ハンディキャップを抱えている」と言ってしまえば、「障害を抱えている」と言うよりもなぜかソフトに感じてしまうのは私だけだろうか。
 今、アメリカでは"handicap"を使わずに、"disabled"を使おうとしていると、英語を習っている女性から聞いた。敏感な企業や自治体では、"disabled"を使っている。"handicap"の語源は、手に野球帽のような帽子を持つところから来ているとも彼女は教えてくれた。つまり、物乞いのポーズだ。体の不自由な人は何もできないから、お金を恵んでもらわなければやっていけないという意味だろうか。ものすごく酷い言葉だ。だからこそ、使わない方向に世論が動いているのだろう。
 でも、こんな言葉を聞いた。あるアメリカ人男性の言葉だ。
「人はみんな、"disabled people"なのです。完全な人間なんていない。歩けない人もいれば、目の見えない人もいる。歩けて目が見えても、人を愛しうまく係わりを持つことができない人もいる。みんな、"disabled people"なのです。」
 この言葉を聞いて、私は泣いてしまった。素敵な言葉だと思った。
 その男性は、目が見えない。でも、舞台俳優で歌手で、作家なのだ。素敵な人の素敵な言葉だと思った。
 なんだか私を含めて日本人は、体の不自由な人と係わることに不慣れなんじゃないかと思った。だから変に、「まあ可哀相に」などと同情ぶったポーズを取ってしまうのではないか。でも、いったん生活の中に埋没していれば体の不自由な人にもめったに会うことなんてない。だからよけいに係わりを持とうとしないし、こちらから行動をおこさなければそんな機会にも出会わない。
 じゃあ、なぜ日本にいたとき、体の不自由な人にあまり出会わなかったのだろうか。
 子供を乗せたストローラーですら歩きにくい日本の歩道を、車椅子で通れるわけなんかないだろう。ハーネスを付けた盲導犬が歩いていると、横から「可愛いっ!!」と犬の頭を撫でようとする少女がいた。犬は、必死に仕事しているのにだ。日本の環境では、体の不自由な人は、アメリカで同じ障害を持った人よりも行動範囲が狭められてしまっているように思えるし、また、日本人の意識自体、まだ教育さ れていないと感じてしまう。
 私の住んでいる地域は土地がたっぷりあるから、歩道は広いし、日本のように恐怖の段差もない。必ず歩道の端はスロープになっていて道路を横断できるようになっている。それに、たくさんの人が出入りするところはドアが広く、車椅子のままで入れるようになっている。トイレだって車椅子用の個室が、各トイレに一つずつ用意されている。古いハンバーガーショップでも、二つ分の個室をぶちぬいて、車椅子の入るトイレに改造している。駐車場には、体の不自由な人専用のスペースがある。一番便利な一等地が必ず指定されている。どんなに混んでいたって、誰もそのスペースに車は止めない。見事なほどだ。
 街中だけじゃない。キャンプ場に行ったって、体の不自由な人のための駐車場とトイレがある。車椅子を使ってたって、キャンプして自然にどっぷりと浸りたい人ももちろんいるだろう。そう、当たり前だと思う。
 そう考えると、日本の街作りは貧相に見えてしまう。
 我が家から一番近い公園には、小学校も隣接している。校舎は平屋建て、トイレもみんな車椅子用のブースが必ず設けてある。もちろん公園のトイレだってそうだ。
 この小学校には車椅子の少年がいる。
 休み時間なのだろうか、ふざけながら、話しながら子供たちが教室から出てくる。
 息子を公園で遊ばせながらふと見た車椅子の少年の表情は明るく、同い年ぐらいの少年が楽しそうにお喋りしながら車椅子を押している。いいな、自然だなと思った。
 もう一つ、胸がキュンとなる光景を見た。
 去年、日本から来た私の両親とディズニーランドに行ったときのことだ。
 十代半ばの少年が二人、アトラクション入り口のキャストから説明を受けていた。一人は車椅子、一人は歩いていた。説明を聞き終わったのか、二人は笑顔で手を振って、裏のドアへと向かっていった。そこからアトラクションのゲートに向かうのだろう。車椅子の少年は、振り向きながら笑顔で車椅子を押している少年と話している。幸せの国の中で見た、一番幸せな光景だった。
 私は、偶然にお昼時、マクドナルドでこの少年二人にまた会った。二人とも山のようなフライド・ポテトを豪快に平らげてハンバーガーを頬張っている。ジェスチャーを交えて、興奮ぎみに喋っているのは、さっき行ったアトラクションの話しをしているのだろうか。
 同年代の友達と、今一番行きたいところに行けたら。それが、自分の大事な友達だったら、……最高だと思いませんか?
 日本なら、どうなんだろう。
 私が大学生のとき、ニュースで、トイレの問題や校舎が平屋建てで無いケースから、車椅子を使っている子供が小学校に受け入れてもらえないという問題が取り上げられていた。今はどうなんだろう。校舎など全面に改築しないと解決できないかもしれない。でも、色んな子供たちが同じ教室で勉強することは、お互いの成長にとっていいことじゃないかと思う。特に、「健常者」と呼ばれる人びとにとっては。
 人それぞれ顔かたちが違うように、目が見えなかったり、足が不自由だったりするのも一つの特徴だと、自然に受け入れられるようにならないものだろうか。
 私たちが変わらなければ、子供も変わらない。
 そして、そういう環境を作るのも、政府の大事な役目なんじゃないかな。

 そう、もっと自然に。


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