正月は嫌い


 ここアメリカでは、正月なんて、クリスマスの付け足しみたいなものだ。家々の飾りだって、クリスマスのまま。屋根の上で光っているトナカイが、何ともお間抜けな感じだ。ラジオからは、クリスマス後のクリアランスセールの宣伝が、やけに流れている。除夜の鐘もなければ、二十年は見ていないだろう紅白歌合戦も無い。おまけに、一月二日からは普通に会社が始まり、なんだか歳が変わらないのに、新しいカレンダーが壁に掛かってるな、といったところが、正直な気持ちだ。
 こう書き出せば、私は日本の正月が大好きなように思われただろうが、餅を思い切り食べれる、着物が着れる、以外、大嫌いだった。
 私の母は綺麗好きで、きっちりしていて、働き者だ。娘の私がこんなにずぼらで怠けるのが大好きに育ってしまったのが、不思議なくらいだ。
 その母は、二学期の終業式が来るのを、毎年、今か今かと待っていた。一学期分の大荷物を抱えて帰った私には、遅い昼食と、正月を迎えるためのお手伝いが、みっちりと待っていた。夏休みの宿題は毎日するように言う母も、冬休みの宿題は、「後でやればええやんか!」の一言で、来年へと吹き飛ばした。この、私を労働力として期待する母の態度は、私の小学生からOL時代まで続くのである。
 屋根に上がり、二階の窓ガラスを外から拭く。生駒山から冷たい風が吹き降ろす。手が直ぐに赤くなり、かじかんでんでくる。気の早い子供が、何も植わっていない田んぼで凧上げをしているのが見える。隣の社宅からは、子供達が遊ぶ声が聞こえてくる。「世の中、旨いこといかんもんやなー」と呟きながら、ガラスを強くこすった。
 こんな年の暮れの中で、唯一好きだったのは、お煮しめを炊く日だった。金時人参を花形に抜かせてもらい、手綱こんにゃくを作るのを手伝う。黒豆や棒鱈の煮える香り。何よりも、ちょとずつのお味見が、とても楽しかった。
 家の内も外も掃き清められ、鏡餅も、重箱も、全て整えたころ、雪崩れ込むように大晦日が暮れていく。除夜の鐘を聞きながら風呂に浸っていると、明日一日は今日と違ってゆっくりできるのだと思うだけで、ウキウキしてきた。真更のパジャマに袖を通し、枕元には新品の普段着を一揃えきっちり畳んで置くと、真新しい気持ちで眠りについた。
 元旦の朝、家族の名前が書かれた箸紙の前に各自が座り、父から子供達への今年一年の指針が申し渡される。期待のようなお小言のような、耳の痛い話しが終わると、お猪口に熱燗を注いで、はじめて、「あけましておめでとうございます」になるわけなのだ。この後、父はたいてい寝正月に突入し、私は誰にも邪魔されることなく、炬燵で本を貪るようにして読んだ。
 翌二日、母から布団を剥ぎ取られ、「もうすぐお客さん来はるがな、何時まで寝てんねん、この子は!!」の罵声で飛び起きる。これこそは、正月二日、三日の二日間に渡る、母と祖母そして兄と私にとっての、戦争のような日々の幕開けなのだった。
 父は衣料の卸し売りを営んでいた。その従業員や家族、父の友人など、ぞくぞくと年始に来るのである。
 父は無類の酒好きで、おまけに客好きだ。玄関に顔を見せた人には、必ず家に上がって貰う。そして、もちろん、酒を一緒に酌み交わすことになるのだ。中には、全く下戸の人もいたが、お節料理や酒の肴で、熱烈大歓迎となっていた。
 座敷では、沢山の男の人と父が、酒を飲みながら大笑いをしている。祖母が寝起きしている南向きの小さな座敷では、女性の従業員や、旦那さんにくっついてきた奥さんと子供が、お菓子やお茶で歓談している。応接間でも、ソファーに座ってウイスキーを飲んでいる人が、政治や経済の話しをしていた。
 さて、舞台裏のリビングと台所では、母以下三名のコマンダーが、客人の胃袋を満たすため、サラミやチーズの盛り合わせを作り、おかきを塗りの器に入れて出しに行ったり、大忙しだった。
 客は次から次へとやって来る。料理も次から次へと減っていく。母は、一口カツやエビフライを揚げる。冷凍していた豚マンも蒸し直す。手分けをして、レモンや塩、醤油や芥子、オーロラソースを器に入れる。満面の笑みで料理を運ぶ母を手伝い、私もお盆に料理を載せて、各部屋を渡り歩いた。そして料理を運んだついでに、使った食器をお盆にてんこ盛りにして下げるのである。その時に、アイスぺールに氷がまだあるのかそっと蓋を開けて覗いてみたり、お銚子を持ち上げて、お酒の減り具合を確認した。そのとたん、日本酒を飲んでいたおっちゃんに、「ああ、まだ入っとんがな、マミちゃん。下げんでええがな」などと言われてしまう。その三分後ぐらいに、「奥さん、お酒あらしまへんで!!」などと同じおっちゃんに言われようものなら、何故か理不尽な怒りが、カッカと頭に込み上げてきた。
 酒飲みは不思議だ。へべれけに酔っ払っているのに、酔っていないと豪語する。そして、強い酒を飲み過ぎたからと、またビールを持って来いと催促するのだ。
 小学生の私は、学校で習ったビックリするぐらいのお利口な「ハイ」と共に、ビールを取りに走った。客に催促させてはいけない、それは母に恥じをかかせることだから。何故か幼い私は、そう思っていた。
 引いた食器は、台所で洗った。乾いた布巾で洗い上げた食器を拭くのだが、その枚数が多いため、布巾は直ぐに絞れるぐらいにびしょびしょになってしまう。ままよとばかり流しで力一杯布巾を絞ると、また、次の食器を拭くのだ。
 ふと気付くと、座敷に父の姿がない。重いお盆を落とさぬようにと注意をしながら歩く廊下で、たいがいは凄まじい物音を聞いてしまう。父は酔っ払って二階の寝室で、轟々と鼾をかきながら、眠りこけているのだ。その鼾が、階段の下の廊下まで響いている。
 朝からのばたばたで、胃袋に入ったのは餅が一切れと、みかんだけ。昼食も夕飯もない。お腹が空いたら、台所にあるものを、立って食べるのだ。目の前を過ぎていくスモークサーモンを横目に、燗を付けていた私は、父の脳天を勝ち割ってやりたかった。なぜか、とっても惨めったらしかった。
 数人の客は夜更けまで飲み明かし、座敷に延べた布団で熟睡すると、二日酔いを覚ますために翌朝熱い風呂に入り、茶粥と梅干しに番茶を楽しんだ後、帰っていった。
 そして、同じようなことが、一月三日も繰り返されるのだった。
 これだけ人の出入りが多いと、私はさぞお年玉を貰っただろうと、お思いだろう。残念ながら、結果は、0円だった。目上の人の子供にお年玉を渡すのは、失礼とされていたらしい。その代わり、私の家に遊びに来た子供達には、手の切れそうな新札がポチ袋に入っているのと、可愛いお菓子の詰め合わせが用意されていた。そのセットを見るたび、またもや理不尽な怒りと嫉妬が、私の小さな胸を焦がしていった。
 だから、私は、正月が嫌いだった。そして、決して、飲兵衛とは結婚すまいと、固く、固く、心に誓った。
 その誓いどおり、私は酒好きだが飲兵衛でない人と結婚した。その人の里の正月の迎えかたは、私の知っていた正月とは全く違い、酒抜きの静寂極まるものだった。お客様のように座っていられる正月に、足の裏をくすぐられているような、大切な何かを置き去りにしてきたような、不安定感を覚えた。
 今年の正月は、家族だけでノン・アルコールのシャンパンを開け、暖炉の炎を見ながら、ゆっくりと過ごした。お節料理も少しだけ作り、可愛らしい重箱に詰めた。でも、買ってきた黒豆は固くて、母が作ってくれたそれとは、雲泥の差だった。夢にまで見た家族だけの正月は、楽しいようで、気の抜けたサイダーみたいでもあった。かといって、あの仲居さんのような正月は、まっぴら御免だけれど。
 今年の年末は、母にねだって丹波の黒豆と、錆びた釘と、黒豆のレシピを送ってもらおうと思っている。やはり、子供に伝えたい日本の正月があるから。そして、この子達には、正月が好きになって貰えるような思い出を、残してやりたい。
 でも、二十数年以上も前の正月を、やっと少しだけ笑って思い出せるようになった自分を、お飾りの下をくぐった分、大人になったのかと苦笑してしまった。
 あんな正月を知っている私は、実は、幸せなのかもしれない。

1997/1/3




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