Betty
ギリシャ・ローマ神話で、こんな話がある。
ゼウスが身なりの貧しい旅人に変装して、農家に一夜の宿を請うた。農家の老夫婦はその申し出を快く受けいれ、できるかぎりのもてなしを旅人にしてやった。ゼウスは老夫婦の態度を嬉しく思い、神の姿形に戻ってこう言った。
「何でも、一つ願いを叶えてやろう」
老夫婦が望んだ願いは、今まで仲良く連れ添ってきたのと同じように、同時に事切れたいというものだった。
ゼウスは二人の固い愛の絆に感動し、二人を二本の白樺の木に変えてやった。
最愛の人の死。それは、今、自分の主人が亡くなったらと想像するだけで、目の前が涙で曇るぐらい悲しいことだ。二人同時に事切れる、それは、叶わぬ夢だ。しかし、残酷だが、最愛の人との別れは必ずやってくる。どうしても、免れることができないものだ。
斜向かいのBettyの旦那さんのDickが亡くなった。パーキンソン病だったという。そんな大病に冒されていても、毎日、介護の人や奥さんと一緒に歩行器につかまりながらDickは散歩をしていた。私の人懐っこい子供たちは、手を振ったり、“Hi”と気軽に声を掛けていた。そのせいで、私も二人とちょっとした立ち話をしたこともある。
Bettyはいつでもにこやかで、Dickと話しながらその散歩を楽しんでいるように見えた。 小さくて痩せていて、髪も真っ白のBettyは、背の高いDickに寄り添うようにしていた。まるで倒れそうな大木を支える小さな支柱のように見えた。事実、そうだったのだろう。Dickの訃報を聞いたとき、彼女の気持ちを考えると、心が錆びたナイフで切られたように、痛かった。
Dickが神様のところへ旅立って二週間、 今日、Bettyはオープンハウスをした。古くからの友達、介護をしてくれた人、近所の住人を集めてパーティーをしたのだ。これから一人で暮らしていく彼女が、近所の人ともっと親しくなりたいという希望で、彼女が住んでいるKinross Courtの住人は、全て招待された。私も、その中に入っていた。
子供たちには、歩行器で散歩していたおじいちゃまが亡くなったことを説明した。子供たちは自分たちの判断で、絵を描き始めた。もちろん、 Bettyへのプレゼントにするためだ。
子供の絵が仕上がり、花屋でアレンジメントを買った。
でも、私は彼女に何と言ったらいいのだろうか。オープンハウスへ出かける用意ができても、私には言い出せる言葉がなくて、足がすくんだ。
結局、絵を片手に走る子供たちに引っ張られるようにして、 Bettyの家へ向かった。
ドアは開いていた。
皺くちゃの笑顔で子供たちの絵を受け取った彼女は、私を抱きしめて背中をさすってくれた。
「来てくれてありがとう」
肩越しに聞こえる彼女の声。「わかってるのよ、なにも言わなくっても、あなたの気持ちは」そう、彼女の抱擁は私に言っているような気がした。
「Dickのこれまで人生のことを飾っているの。見ていってちょうだいね」
リビングには、Dickの誕生、第二次世界大戦でのパイロットの勇姿、野球のチームのトレーナーやサインのしてあるボールなど、思い出の品が飾られ、ワープロで打ってある説明文が添えられていた。
リビングに続くファミリールームでは、招待された客が用意された料理を楽しみながら会話をしている。御近所の顔見知りも何人かいる。その料理といったら……料理の得意な彼女が精一杯作ったさまざま料理が、テーブルから零れ落ちそうなほど並んでいる。私が日本人だということで、お寿司まで用意していてくれた。
Bettyは、完璧にホステスとして振る舞っていた。
料理は足りているかと目を配り、私が話し相手がいないと見ると近付いて何かと話し掛けてくれる。
「本当に、二年前に来たときより、随分と話しができるようになったわね」
彼女はそう言って笑った。
私が話しやすい話題を盛り込んでは会話を弾ませる彼女を目の前に、自分が彼女を慰めなければならない立場なのにという苛立たしさを感じながら、それでも楽しく話しをさせてもらった。私がパーティーの席にいて楽しんでいることが、きっと今日の彼女にとっては何よりも嬉しいことなのかもしれないと思ったからだ。
哀しみも、何もかも乗り越えてにこやかに話す彼女、私とあまり身長の変わらない彼女が、私にはとても大きくて暖かく優しい存在に感じた。
私が同じ立場なら。目がとろけて無くなるまで泣く自信はあるが、彼女のように毅然と振る舞える自信は全くない。
そう、彼女はとても素敵な女性だ。
子供が退屈してきたので、おいとましようと彼女にお別れを言いに行った。
「いつでも、私の家に遊びにきてね」
そう言う私を見る彼女の目が、少し潤んだ。
「ありがとう」
その言葉と同時に、私たちはまた抱き合った。
凛としたBetty。彼女は今まで私が知らなかった、アメリカの強さ、そして女性の強さも教えてくれた。
4/4/'98
Richard("Dick") Kamrath氏のご冥福を、心よりお祈りいたします。
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