なぞなぞ


 アメリカのキッチンにあって、日本の台所にないものなあに?
 日本の台所にあって、アメリカのキッチンにないものなあに?

 水曜日ごとに、誰かの家に集まって食事をする習慣が始まって、一年が過ぎた。早いものだ。
 この一年で、私は今まで知らなかったアメリカの食文化に触れることができたし、私の友人たちも遠い東の国の未知の食文化を垣間見れて楽しかったのではないかと思う。
 たとえば、アスパラガスやブロッコリー、カリフラワーなどの野菜は、日本人なら塩の入った湯で湯がくのが一般的だろう。私も、付け合わせの野菜はそうして茹でていた。
 しかし、私と一緒にディナーを作る係りになった女性は、大きなスチームのできる鍋を抱えて我が家に来てくれる。
 「アメリカ人は、野菜はスチームするのが好きなの」、と彼女は言っていたが、「ああ、マサヨったら、また野菜を茹でてる。ビタミンが全部水に溶けちゃうじゃないの」なんて思っているに違いない。
 ブロッコリーやカリフラワーに至っては、そのまま出てくる。つまり、茹でないで、ディップをつけて生で食べるのだ。
 結構、強烈にショックを受けた。
 友人の中には、アレルギーがひどく自然食品や日本食に興味を持っている女性や、日本人とインド人のハーフとして生まれたけれど、弟の出産の産褥でお母様が亡くなられたため、日本食を母親から教われなかったという女性もいて、私に日本食を教えて欲しいなんて言う人も結構いる。時にはそんなリクエストに答えて、どっぷり日本食を作ったこともある。
 もう、出汁をとったり、味噌汁に味噌を入れたりするだけで、「ああ、こうやってするのが本式なのね」なんてどよめきが捲き起こる。人によっては、味噌汁を作るとき、出汁もとらないし、水から味噌を溶かして煮ていたなんていう人もいた。
 でも、生の魚での手巻き寿司やおでんは、食べれない人がいて、もう二度と作っちゃいけないメニューだったのも事実だ。
 おでんに入れた茹で卵を見て、「これって、もとから茶色い卵なの?」って聞いてくれた友人もいる。笑いながら、「卵は、普通のスーパーで売ってる卵だよ。この茶色は、出汁の色なの」と答えた。
 その後、おでんは作っていない。
 でも、健康にすごく気を遣っている人は、必ずこう聞いてくる。
「マサヨ、MSGは入ってないでしょうね?」
 MSGとは、「味の素」のことだ。日本食には大量に使われているとアメリカ人は信じているし、 MSGがアレルギーの症状を引き起こすと真剣に受け止められている。だからか、アメリカのマーケットで売られているアメリカ産の日本食材や冷凍食品には、必ず「no MSG」と表示してある。
 私の小さい頃、「味の素」を食べると頭がよくなるなんて迷信が信じられていて、おひたしでも、漬物でも、雪のように白く積もった「味の素」と一緒に食べさせられた記憶がある。その反動で私は「味の素」が大嫌いになった。だから、私のキッチンには「味の素」は置いていない。だが、こうもあからさまに「味の素」が攻撃されていると、一度一瓶全部おすましの中にぶち込んでやろうか、なんてひねくれた考えが頭をもたげる。もちろん、そんなことはしないが。
 さて、アメリカ人の作るディナーは、オーブンを使って焼いた肉、鶏が多い。魚も出てくるが種類が少ない。水曜日のメニューでは、魚といえば鮭が一度出てきただけだった。これは、魚を食べる習慣があまりアメリカ人にないことと、市場に新鮮な魚が出回っていないことがネックになっている。けれど、同じエリアの市場でも、日本系や韓国、中国系のスーパーでは刺し身が手に入るし、日本ほどではないが、かなりの種類の魚が手に入る。主人の会社のアメリカ人など、「他に食べるものがないから、肉を食べてるんだよ」と言っているのだそうだ。
 さて、目の前には熱々の肉と、付け合わせのスチームした野菜、果物を切ったフルーツサラダとパン、炊き立てのごはんも並んだ。すると母親たちは、大皿を持ってその前に列を作る。
 サラダも、フルーツサラダも、パンも、肉も、ごはんも、母親たちは全部一つの皿に盛っていく。
 もちろん、肉にはグレイビーソースをかけるし、サラダにはドレッシングをかける。味がちゃんぽんになる。確かになるが、それがアメリカ流なのだ。フルーツも、ごはんも、みんな一皿に盛られていく。
 これは開拓時代の名残かもしれないな、と思った。
 家財道具を一式幌馬車に積んで西へと向かった彼等の先祖は、夕方、たき火をして夕食を作ったのだろう。一人一枚っきりの皿に、惣菜を盛り、スプーンかフォークで食べたにちがいない。日本のように、小さい小皿だのおひたしの小鉢なんぞにちまちま入れて楽しんでいる暇もゆとりもなかったのだろう。
 哀しい風習ともとれるが、後片付けが楽で合理的だという面もある。
 アメリカのキッチンには、大抵ディッシュウォッシャーがある。だから、何人お客が増えようと、人数分の大皿があれば何とかなるのだ。
 今週の水曜日のメニューは、トルティーヤだった。
 メキシコ料理らしい。小麦粉やトウモロコシの粉で作ったトルティーヤという薄いクレープのような生地に、肉と豆、それからレタスとトマトを入れて食べるのだ。他には、フルーツサラダが用意されていた。飲み物は麦茶なんてものはなく、甘いジュースだ。
 That's it ?
 そのとおり、それだけなのだ。
 さっさと夕食を済ませた家を開放してくれた女性のご主人は、てきぱきと大皿をディッシュウォッシャーに並べはじめた。もう、とっても慣れた手つきだ。他の女性は、スポンジでテーブルの上を拭きは始める。日本のように、お膳布巾なんてものは存在しない。だからか、食事が終わってからの後片付けは、我が家で家族4人が食事をとったときの後片付けよりもずっと素早く終わってしまう。
 とても、合理的なのだ。
 それに比べると、日本の台所にはディッシュウォッシャーなんてものはない。日本の主婦は、茶碗から皿、箸やお椀など、全部手で洗っていく。食事を作るのも大変だが、あの後片付けというのは面倒で、その割りには時間を喰う仕事なのだ。
 そう考えると、日本の主婦は、みなとっても働き者だ。特に共稼ぎなんてしている私の友達などには、私は絶対に頭が上がらない。
 さて、この合理的な水曜日のディナーのあと、どうしても私は家に帰ってきてから、ごはんを食べてしまう。お茶碗に熱々の白いごはんを盛り、漬物を小鉢に入れる。もう、それだけでいい。でも、それだけで、なんだか、やっと夕食をとった気分になれるのだ。
 やっぱり、染み付いてしまった日本人としての風習は、どんな合理的な誘惑も跳ね除けてしまうようだ。
 そして、「日本人の主婦って、本当に良く働くな」と思いながら、茶碗をディッシュウォッシャーへ入れる。
 今の私は、合理的と叙情的な風習との狭間に揺れている。


  さて、上にあるなぞなぞの答えは、「ディッシュウォッシャー」と「お膳布巾」です。

1998年6月22日


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