Who are you ?


 まだ息子に乳を含ませているとき、突然電話が鳴った。梅雨の中休み、抜けるように青い空の日だった。 受話器の向こうからは、聞きなれない男の声がした。
 誰なのか、さっぱり見当がつかない。それでも向こうは私を知っているのか、馴れ馴れしく私の名前を呼んでいる。
「雅世、ほら、同じ大学だった、僕だよ」
「僕と言われたってわからないわ。名字を言ってもらわないと」
 相手の男は、私がそう言っても、いっこうに自分の名字を名乗ろうとはしない。
「じゃあさ、僕の名字を当ててみてよ、イニシャルでもいい」
 変だな、と感じながら、頭の中で男友達の名字を並べてみる。でも、どの友達も、こんな声じゃなかったし、第一、私のことを名前で呼ぶような男友達はいなかった。先輩も、後輩も、同輩も、みんな私のことはあだ名で呼んでいてくれていたから。
 電話を切ろうかとも思う。
 でも、もしも、本当にどこかで知り合っていた友達で、私だけが忘れていたとしたら……妙な不安に襲われて、私は受話器を握り締めたまま座り込む。うとうとと眠りはじめた息子が、ずっしりと腕に重い。
「今、出張で東京にでてきてるんだけど、どこかで会わない?」
 なんとなくベースに関西弁が匂うアクセントだ。私の出身校は神戸にある。やはり、私だけが忘れているのだろうか。
「駄目、今、子供は2ヶ月で、外に連れて出たくないの」
「子供がいるの。一人?」
「いいえ、4才の娘もいるわ」
「そう、それじゃあ、そこまで行ってもいいかな」
「駄目、誰だか知らない人を家に上げられないわ」
「だから、僕だよ」
「僕だけじゃ、わからないわ」
 突然、男の声が、ねっとりと変に熱っぽくなった。
「雅世って、結婚してから、色っぽくなったね、声とかさ」
 受話器を通して聞こえる荒くなった男の息が、とても不快だった。
 なのになぜか、私は、極力相手の友人と名乗る男を傷つけたくないと思った。
 私は、話しを切り替えた。
「で、そっちは結婚した?」
「うん、した」
「子供は?」
「上は、4才の男の子、下は、4ヶ月」
「偶然ね、同じ学年になるわけね」
「うん」
「ねえ、学生のときに言ってたこと、覚えてる?」
「何?」
「結婚したら、いい父親になるのが夢だって言ってたじゃない。その夢はどうしたの?」
「……」
「何か、とっても嫌なことがあったのでしょう、で、私のところへ電話くれたんでしょう? でもね、自分の夢から逃げちゃいけないと思うの。だから、今日のあなたとは会えないわ。わかった?」
 少し沈黙があった。
「じゃ、いつか会ってくれる?」
「名字を名乗って、奥さんや子供たちと一緒ならね。どこかで、ピクニックしましょう、そのときは」
 男は、「うん、じゃあ、また」と言って、電話を切ってくれた。
 クレイドルに受話器を置くと、どっと疲れていることに気が付いた。
 でも、友人だと名乗る友人を傷つけないでよかったとほっとした反面、最後まで名字を名乗らなかった相手に対して、とても嫌な気分を抱き込んでいた。
 それはしこりとなって、私の心に深く澱んでいた。
 一ヶ月ほどして、やっと主人にこのことを話すことができた。それほど、私は混乱していて、あのときの自分の行動に自信が持てなかったのだ。
 彼の反応は、明快だった。
「それは、友達じゃないよ。きっと、君の大学の名簿を金で買って電話してきたんだよ。想像してごらん、君の友達の中で、電話してきて名字を名乗らない人、いると思う?」
 そうだと思いながら、涙ぐんだ。私は、何を傷つけまいとして躍起になっていたのだろう。誰のために。
 ほろりと落ちた涙を見て、主人は私を抱きしめた。
「ホント、君って人は……」

 あれから4年、自分のなかで少し整理できた部分がある。
 その後、神戸は「阪神淡路大震災」に見舞われた。電話で連絡をとった私の男友達のなかには、やはりあの声の持ち主はいなかった。
 そのときほど、友達の温かさを再認識したことはない。小さな子供を抱え、何もできなくて済まないと詫びる私に、「気にせんでええで、お前には、子育てゆう仕事があるんやさかい。心配してくれてるだけで十分や」と、異口同音に言ってくれた。そんな友達の中に、あんな無礼を働くような人間がいるように思い、友達の顔を思い浮かべた自分が、とても恥ずかしく、友達にとても悪いことをしてしまったと感じた。相手はそのことを知らなくても、疑ってしまったのは事実なのだから。
 そして、もう一つわかったことは、あのとき、相手を傷つけなくないと思ったのは、実は、自分が傷つきたくないと思った気持ちだったとも。

 その後、あの声の持ち主からは電話はかかってこない。

 今日のカリフォルニアは、あの日と同じように、抜けるような青い空だ。

1998年6月22日


もどる