きもの

 私にとって目を閉じれば昨日のことのように浮かび上がる光景がある。
 一面の蓮華畑で滲むように揺れいてる薄紫の花から、浮き上がるように白い母の白足袋が覗いていた。
 あれはまだ幼稚園に上がる前のことだったと思う。
 どこにも連れていってくれないと駄々をこねた私を、母は家からきつい坂を下った田んぼへと連れていってくれた。そこは一面、蓮華が咲き競っていた。ぽかぽかと温かい春の陽射しのなか、出掛ける前にちょっとしたよそ行きの着物に着替えた母が立っていた。
 蓮華を摘むとお百姓さんに叱られないだろうかとびくびくしながら、それでも私はしゃがんで蓮華を摘んだ。
 ちょっといい紬を着ていた母は、しゃがむこともなく、蓮華を摘むこともなく、陽射しの中に立っていた。日焼けを嫌がりビタミンCを飲んでいた母に悪くて、自分の手で持てるだけの蓮華を摘むと、「家に帰ろう」と言ったように思う。
 その帰り道、母は着物と季節について教えてくれた。
 着物の柄は、必ず早め早めの季節のものを選ぶこと。桜が満開のときに桜の柄を着るのは、無骨らしい。桜が蕾を膨らませはじめたころから、せめて三分咲きぐらいまでが着れる期間なのだそうだ。四君子や季節のあまりない松竹梅は別として、着物と季節は外せないものだと教わった。
 その当時、母や祖母は月賦で着物を買っていたように思う。
 家には数ヶ月に一度、大きな行李(こうり)を持った呉服屋さんが訪ねてきた。
 呉服屋さんの反物をそれは早く巻き取る仕種、そして何とも言えない衣擦れの音とその色柄に惹かれて、いつでも私は呉服屋さんが来ると同じ部屋で大人しくその様子を眺めていた。
 呉服屋さんのアドバイスはいつでも的を得ていたし、前回の買い物の内容まで覚えていてそれに合った商品をもってきていることに対して、子供心に商売人の粋を見たような気がしたのだ。
 買った反物は、祖母や母は自分で断ち、自分で縫った。
 古くても良い生地なら、着物を解き、反物の形に縫い直してから、染め物やに洗い張りや染め直しに出していた。
 普段着なら、家でその反物を伸子針をつかって洗い張りをしていた。梅雨の前、五月晴れの日には、家の庭にそんな反物が揺れていた。
 私の七五三の晴れ着も、夏の浴衣も、そうして縫ってもらった。
 晴れ着は絵羽になっていて、どこを断つのかは決まっているが、浴衣はそうではない。柄合わせが必要になる。すると、センスの良い父が柄合わせをしてくれた。
 今思うと、そのときは古臭いと思った柄も、子供の可愛らしさを十分引き出す魅力を持ったものだったことがわかる。水草に金魚、白地に赤い朝顔、紺地に夏草が描かれた団扇。あの生地はどこへいったかわからないが、その柄は私の記憶にはっきりと残っている。
 先日、私の娘が、プールに入って体も髪もびしょびしょのまま浴衣を着てきた。
 私は目を吊り上げて娘を叱った。
 私など、晴れ着や浴衣を着る日は、水分を摂ることを禁止されていた。着物に着替えると、食べるときも細心の注意を払ったし、みかんなどは皮を剥くときに汁が飛び散るので、食べるのはもちろんのこと、みかんの皮を剥いている人の近くに行くことすら禁止されていた。
 私の表情を見て、主人がなだめに入った。
 私は、祖母や母が着物を大切にしていることを自然に目のあたりにしてきた。でも、娘はそうではない。だから、浴衣はTシャツと同じぐらいにしか思っていないと言われた。
 冷静になってみると、そのとおりだった。
 やはり、親の背中を見て子供は育つのだろう。
 日本人女性として、娘に伝えていないことが多くて、恥ずかしくなってしまった。
 紬をここで着るのは無理としても、せめて浴衣ぐらいは着たい。そして着物を大事にしている姿を見てもらえれば、何か伝わるかもしれない。娘の乾いた浴衣をたたみながら、そう思っている。


西暦千九百九十八年 文月二十二日




こうり(行李)柳・竹・藤などで編み、身とふたをほぼ同形に作った物入れ。衣類、文書などの収納・運搬用。
しんし(伸子和服地を染めたり洗い張りするとき、布を張るために使う、竹ひごの両端に針がついたもの。
布の耳に刺していく。しいし。
講談社出版 『日本語大辞典』より


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