香り


 香りは素敵だ。
 素敵な光景に、素敵な香りが重なると、その瞬間を一生心に焼き付けておきたくなる。そんな瞬間に出会えると、それは、私にとって至福の時になる。
 美しい絹のきものから、白いしつけ糸を抜きながら、仄かに香る忍ぶ香。
 歯に染み入るように冷たい梨を齧ったとき、風が運んできた金木犀の香り。
 水を含んだ土から香る、早春の香りと、わずかに開いた白梅の香り。
 むせ返るような夏の熱風が運んできた、ありったけの薔薇の香り。
 抱きしめた子どもの、まるで小犬のような香り。

 あるいは、香りは、ふと過去を思い出させる。
 もう、開けることの無かった引き出しの奥に仕舞い込まれていた記憶のカケラですら、香りは、ぽんと、目の前に置いてくれることがある。
 焼きあがるケーキの香りは、震え上がるほど恐ろしく嫌いだった歯医者を思い出させてくれた。これは、いつも通っていた歯医者が、ケーキを焼いている工房と同じ建物に入っていたからだ。そして、外国から来たLPレコードの香りは、ちょっと生意気そうな目をしていた、制服を着た中・高生の私を思い出させる。

 まだ私が独身のとき、出張で東京に出かけて、何年ぶりかに大学時代の男友達に会ったことがある。二人で肩を並べてお酒を飲んでいるとき、男友達はこう言った。
「トワレ、変えてないんだな……その香りがすると、思わず、お前がいるんじゃないかって、あたりを見回してしまうんだ」
 男友達は、ちょっと恥ずかしそうに目を伏せた。

  そのトワレを、先日つけてみた。
 主人、曰く。
「その香りって、現役ばりばりのキャリアウーマンなら似合うけど、今の君には似合わないよ」
 ショックだった。
 一番気に入っている香りが、もう自分に似合わなくなっているなんて。
 やはり、年をとって、どこにでもいるお母さんになってしまっていたのだろうか。そうならないように、自分でも、少しは勉強もしてきたつもりだったのだが。
「じゃ、何が似合うと思う?」
 聞いてみても、答えは、「わからない」だった。
 人の気持ちをぺっちゃんこにしておいて、最後は、わからないで終わらせるのかと思うと、ちょっと、腹がたってしまった。忠告するのであれば、どうすればよいのか、その代行策を用意してから言って欲しいと、喉まで出掛かった。
 しかし、これで怒るのも大人げない。
 私は、今まで使ってきたトワレを、棚の一番奥へと仕舞い込んだ。
 あのトワレが似合うようになる自分に、早く近づきたいと思いながら。

1998/9/24







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