肖像権は手放しておりません



日本にいる両親から、電話がある。
至急、写真を送ってくれというのだ。今までのは駄目らしい。キッチンで料理を作っているか、家の掃除をしているところがいいらしい。

事の起こりは、私のページにアクセスしてくださった方がエッセイをプリントアウトして、伯父に見せたことかららしい。そのエッセイが一人歩きして、とある小冊子に載せていただけることになった。
どうやら、その小冊子に、顔写真といっしょに載せる予定なのだそうだ。

私は、自分の顔はページに載せないつもりだ。
なぜなら、私の知らない人に、顔を知られたくないのだ。
たとえ地球がひっくり返って、私が文章を書くことで有名なったとしても、顔は出したくない。どこに行っても、たくさんの人の中の一人として、そこにいたいのだ。目立つことなく、他の人の中に埋もれながら、私とは違う人を、観察していたいのだ。
自分の面識の無い人に、「福井雅世さんですね」なんて言われるのは、まっぴらごめんだ。

「じゃ、エッセイの掲載の件、お断りしますって言ってよ」
そう受話器の向こうの母に言う。
「そんな。パパも、板挟みやの。スキーに行った写真を持っていかはってんけど、家で家事してる写真が欲しい言うたはんねんて」
板挟みときた。
親に弱い私の行動を見抜いた発言だ。
「な。親の顔たてて」
うーん、と唸り、受話器を持ち直す。
「じゃあ、顔のところに、別の絵を貼り付けた写真ならどう?」
頭の中には、エプロンをつけた私の顔の部分に、猫の顔を描いた映像を思い浮かべる。フォトショップなら、できるはずだ。それとも、ちょっとやばいサイトの裸エプロンを探し出して、そこに顔をのっけてやろうかとも。
一瞬、沈黙する母。
「親の顔、潰さんといて」
気配で、何か感じたのだろうか。

結局、「親」という言葉に負け、写真を撮って送ることを承諾した。

スキーに行っている私も、家事をしている私も、私には違いないはずなのだが。やはり、普通の主婦が書いたエッセイだから、主婦を強調する映像が欲しいのだろうか。
なんだか、納得できない。

約束してしまったのだから、私は、写真を撮って送らなければならなくなった。
しかし、アップの写真なんて、絶対に嫌だ。顔をできるだけ隠したい。
ああ、どんな顔をして写ればよいのやら。考えただけでも憂うつになってしまう。
写真を撮りなれている方に、アドヴァイスしていただきたいほどだ。

それでも、やはり、自分の顔がどこかに載ることに、抵抗を感じる。
載るということは、私の知らない人の目に触れるということだ。なんだか、嫌な感じがする。配られた見合い写真よりも、嫌な感じだ。
釈然としないまま、「ぶーたれた顔」で写ってやろうかと、ちっぽけな反抗心が頭をもたげる。
でも、そういった写真は、親の顔を潰すのだろうと、遣り切れない思いに囚われる。

親の顔は、たててみたり、潰さないようにしたり、離れていても、大変なものだ。

でも、私の顔は、どうすればいいのだろうか。

98/10/07




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