アメリカに来てから、日本語が恋しくなって文章を綴るようになった。詩も、自分では手も足も出ないとわかっていながら、この夏から作りはじめている。
でも、エッセイと詩では、作り方が全く違う。
詩は、心に浮かんだ言葉をそのまま書き留めている。下書きもしない。息子を朝、プリスクールへ送る道すがらできることもある。または、頭が真っ白な状態でパソコンの画面に向き合い、そのときの気持ちを、ピンセットで摘まむように並べていく。
しかし、エッセイは、全く別の方法で書いている。
一番初めに、何を書きたいかがすでに決まっている。それを導き出すために、出だしを考え、ひねりを入れる。大体の構成が決まらないうちは、決してパソコンの前には座らない。座ったとしても、エッセイを打つためのワードは立ち上げない。
心がいらいらして、もう、書きたくて、どうしようもなくなったとき、一気に書く。
自分が無意識にとっていたこの方法に気付いて、ふと、祖父のことを思い出した。
父方の祖父は画家だった。日本画のだ。
羽子板に大津絵を書いたり、屏風や掛け軸などに、季節の絵などを描いていた。
その外には、今の商業デザイナーのようなこともやっていた。今でも、祖父のデザインしたものを目にすることができる。「磯じまん」、あの海苔の佃煮のラベルは、祖父がデザインしたものだ。
この祖父ときたら、明治生まれなのに身長が180cm近くあり、団子鼻で、煙草を吸っていたため声はガラガラ声だった。しかし、自分の美意識を大切にする人だった。お洒落だった。どんなに重い病気になろうと、朝には顔を洗い髪をすき、オーデコロンを仄かにつけていた。
元気だったころの祖父は、普段は長男夫婦と同居していたが、年に何回かは自分の息子たちの家に遊びに出かけていた。三男坊である父の家、つまり我が家にもよく泊りがけで遊びに来ていた。
私の母は、色が白く目の細い、古典的な日本美人だ。また、よく気のつく女性である。そんな母は、祖父が遊びにきていると、思いっきりもてなしていた。母が父に見せる気遣いよりも、数段神経を尖らせて対応しているのが、幼かった私にもわかるほどだった。
朝ご飯には、目玉焼きを焼いて祖父に出すのが習慣だった。掃除をし終わった美しい部屋で、ゆっくりと祖父は朝食を摂っていた。しかし、母が素顔だったり、ちょっと化粧が剥げていると、どんなに美味しそうな朝食が目の前に出ていても祖父はこう言った。
「お仕舞してからでええさかい」
つまり、化粧してから持ってこいというのだ。
「おなごはな、痩せてるのはあかん。頬っぺたも、ぽっちゃりとしてるほうがええ。頬がこけたんは、人相が悪い。それは、所帯やつれや。雅世は、そうなったらあかんで」などと、そばで絵本を読んでいた私に言う。
白く白粉をはたき、紅を差した母が、和服姿で祖父の前にお膳を置く。祖父は、満足したように大きな声で「いただきます」というと、美しく箸を使いながら食べはじめた。
祖父が遊びにきていて一番嫌だったのは、私が勉強しているところを見られることだった。
算数ならまだ何も言われなかったが、国語や絵になると、祖父は気になるところを指摘するのだ。
たとえば、文字を書いているときの姿勢が悪いと、それだけで注意される。練習している漢字の書き順が違っていれば、それはそれで、また、こってりと注意された。
年賀状など、下書きに鉛筆を使いサインペンで上からなぞっているのが見つかったときなどは、思いっきり注意を受けた。
「そんなやりかたでは、字が死ぬやろ。勢いよく、書かなあかん。もう一遍書き直しや」
絵でもそうだった。
その当時、学校では白い画用紙に絵を描くときには、黄色いクレパスで下絵を描き、その上から水彩絵の具で色をつける方法をとらせていた。そうすれば、下絵はいつでも水彩絵の具をはじくからだった。
祖父は、この方法も気に入らなかったらしいのだ。
「雅世、なんで、クレヨンでそんなもん描くねん?」
祖父は不思議そうに聞く。
「だって、先生、こうやって描けいわはってんもん」
「ほな、その黄色いクレヨンがあらへんかったら、絵、描かれへんのか?」
絶句する私に、祖父は畳み掛けた。
「そのやりかたやと、線が死ぬ」
祖父は、私の目を覗き込むようにしてこう言った。
「絵はな、初めての筆を下ろすときには、もう、どういった絵に仕上げるか、それが頭にないとあかんねんで」
祖父の言ったことが、どういうことなのか、私は長い間わからなかった。
しかし、今、なんとなくわかったような気がする。
「おじいちゃん、どうしたら、上手な絵、描けるの?」
幼い私の質問に、祖父は大きな手で私の頭を撫でながらこう言ってくれた。
「それはな、描きたいものを、よう、見ることや」
私の中には、まだ、祖父は生きづいている。
素敵な言葉と一緒に。
西暦一九九八年 神無月十一日