「わたし、クリスティーン。7歳。えっと、暖かいジャケットが欲しいの。去年のは、もう小さいから。」感謝祭が終わると、ラジオから怒涛のごとくクリスマスソングが流れ出す。
街は赤と緑で飾り付けられ、イルミネーションもまるでおとぎの国に迷い込んでしまったかと思うほど、家々の屋根や樹にまで煌いている。
クリスマスが近づくと、パンプキン・パッチになっていた空き地に、クリスマスツリーが立ち並ぶ。本物のモミの木があの芳香を湛えて乱立する。人々は姿の良い木を選び、家へと持ちかえる。自動車の屋根にそんなモミの木を乗せたのが、ここかしことすれ違うようになる。
小さな子供のころ、クリスマスは楽しい行事だった。
小さなクリスマスツリーに灯が燈り、紙でできた靴下の中にお菓子がたっぷり入ったのを父から貰った覚えがある。
オーナメントのガラスで作ったボールが、何よりも好きだった。
世代は変わっても、今の子供にとってもクリスマスは特別なイベントだ。
ここアメリカでもそうだ。
子供たちは、サンタクロースがどんなプレゼントを持ってきてくれるか心待ちにしている。何が欲しいかというリストを作って、暖炉の近くに置いておくのだそうだ。
しかし、どの子供のサンタクロースも裕福とはいえない。ぎりぎりの生活をしていて、子供のプレゼントのまで手が回らない家庭もあるだろう。
そんな子供たちの「ウィシング・リスト」が、12月間近になると、新聞、ラジオなどに出始める。
おもちゃが欲しいというのもある。しかし、子供がねだるプレゼントの大多数は衣料品なのだ。靴が欲しい、冬を暖かく過ごすためのジャケットが欲しいなどが多いのだ。
あるFM放送局では、「シークレット サンタ」といって、リスナーが名前や身分を明かさずにそんな子供にプレゼントを贈るシステムがある。子供からの可愛いおねだりが、電波にのって流れる。そんな子供をサポートしたい人がFM局に電話をして、その子のシークレット サンタになるわけなのだ。
この善意のプレゼントは、子供のためだけではない。サンホセ マーキュリー ニュースは、苦しい生活を送っている青年や助けが欲しい人たちの「Whish Book」を11月の第3日曜日に新聞に挟み込んだ。
この「Whish Book」の中には、たくさんの人が写真入りで紹介されている。そして、それぞれのケースにナンバーがふられている。
HIV感染して亡くなった、姉夫婦との子供を育てている女性。その2人の子供は、出産時にHIV感染してしまっている。
盲目の少年を含め、4人の子供を育てている無職のシングルマザー。
9人の精神障害と肉体的な障害を持った子供だけを、養子にして育てている女性。
家も職も失い、シェルターで暮らしながら、もう一度家族としてやり直そうと戦っている夫婦と子供たち。
未熟児で生まれたために体が不自由で、特別製の車椅子が欲しいが、あまりに高価で手が出ない女性。
それらの人たち、家族たちが、必要としているものをサポートするために、「Whish Book」の最初のページにはサポートしたい人のナンバーを記入する用紙が入っている。
その用紙に金額を書きこみ、小切手と一緒に新聞社へ送るシステムになっているのだ。
一人一人の数ドルの善意が、子供たちの靴になり、車椅子になっていく。
24時間、テレビでタレントが何かをするのではない。
淡々と流れる時間の中で、善意のある人が愛を感じながら、自分のできることをする。そして、そうやって行動したこと、人に与えられることに喜びを見出す人がいる。
日本人にとって、クリスマスは海の向こうからやってきた行事だ。
恋人たちが贈り物をしあい、デートをする日なのかもしれない。それはそれでいいのだろう。
でも、もう一度考えて欲しい。
誰かにプレゼントができることの、幸せを。
そして、誰かに幸せを分け与えられることの、喜びを。
誰にとっても、素敵なクリスマスでありますように。
Happy Holiday!
このエッセイはInfo Ryomaのコラムに書き下ろしたものです