Department of Motor Vehiclesからメールが来た。封筒の中には、私の新しい運転免許証が入っている。ピンクの小さな丸いシールといっしょに。健康な体で生まれ、そして日々暮らして行けることのありがたさを、健康な人は忘れてしまうことがある。
しかし、現実には、病を抱え、その病気と戦いながら、共存しながら暮らしている人がいる。薬で完治する場合もあるだろうが、全く自分の臓器が機能しなくなった場合には、臓器移植も必要になってくるだろう。
日本での臓器移植の歴史は、アメリカやヨーロッパに比べれば浅いのだろう。それは、病院側のスキルの問題だけではなく、脳死という問題も抱きかかえている。
日本でも脳死の判定に関する法案が国会に提出され、1997年10月16日に臓器移植法が施行された。このエッセイを書いている時点では、日本国内で脳死と診断された患者からの臓器提供と、臓器移植の手術は行われていない。
しかし、少しずつだが、日本も変わろうとしているのを感じられる。
だが、もしもこの法案が施行されたとしても、人々は、脳死をどう捉えるのだろうか。自分が脳死になった場合、家族の誰かがなった場合、どう行動するのだろうか。
これは、日々の暮らしの中で、家族や夫婦で話し合うべき問題なのかもしれない。
いざ、大切な人が脳死状態になった場合、本人の意志がどうであったかを知るのは、いつもいっしょに暮らしていた人たちだろうから。
だが、現実として、それだけの情報では臓器提供をしぶる病院もある。それならば、自分の意志を明確に記したものを持ち歩くことが必要になるだろう。
日本には、「意思表示カード」というのがある。詳しくは、Transplant Communication(http://www.medi-net.or.jp/tcnet/index.html)というサイトをご覧になっていただきたい。このカードに、脳死後、自分がどう対処して欲しいかを書くことができる。臓器の提供を望むことも、望まないこともできるのだ。
ただ、このカードを手に入れるには、ほんの少し、行動しないといけない。つまり、メールを出すなどの行動を起こした人のところへしか郵送されてこないという問題がある。
日本ではまだ、受動態のシステムは確立されていない。アメリカでは、運転免許証が郵送されてくる封筒には、大きな紙に免許証が糊で貼りつけてある。その紙には、切り取り線の入ったカードが印刷されている。ドナーとして臓器を提供するかどうかのカードとピンクのシールが入っているのだ。
カードには、自分の臓器の何を提供するかを記入する欄がある。角膜、心臓、腎臓など、自分で指定して記入することができる。そして、自分のサインをし、ピンクのシールを免許証に貼りつける。あとは、免許証とそのカードをいっしょに持ち歩けばいいことになっている。
ちろん、提供しないという選択肢もそのカードには含まれている。その場合には、ピンクのシールを免許証に貼らないのだ。
アメリカで暮らしていくには、運転免許証が必須だ。
全ての運転免許証を持った人は、このカードを見て考えるだろう。
ドナーになるか、それともならないか。
普段の生活で、自分で考えて自分なりの結論を出し、みんなピンクのシールを貼ったり、貼らなかったりしている。
全ての人がピンクのシールを貼る必要はない。一番大切なのは、自分で考えて、自分の意志でそのシールを貼るかどうかを決めることなのではないか。今日本では、大学病院や救命救急センターが、臓器提供の体制を整えようとしている。
しかし、それより大切なことが、私は二つあると考える。一つ目は、人々の意志を尊重し、善意をくまなくすくいあげることができるシステム作り。二つ目は、その善意によって旅だった人を家族に持つ、残された人々の心をサポートするコミュニティ作り。
特に後者は、脳死と診断されてから臓器を提供した患者の家族を、病院内からずっとサポートする必要があると感じる。
まだ生きているとしか思えない愛しい人にメスを入れ、臓器を提供することは、本人の意志とはいえ、残された家族にとっては受け入れられない部分もあるだろう。その心の葛藤をともに感じ、新しくまた別の人の体の中で生き続け、別の人に新しい人生を与えることができるのだと話せるだけの、本当のプロのカウンセラーが必要だろう。
それがないと、日本でのドナーの制度は定着していかないだろう。提供される臓器、それは、ただの肉の塊ではない。
それは、善意の魂なのだから。99/01/02
このエッセイはInfo Ryomaのコラムに書き下ろしたものです