黄色い花束

 私が小さかった頃の母の口癖は、「ママは何んにも知らんから、あんたはしっかり勉強すんねんで」だった。
 私がテレビや本、学校で聞きかじった知識を母に話すと、母はいつでも耳を傾けて聞いてくれた。私は、それがとても嬉しかった。

 そんな母を、父は何も知らないと言っていた。
 確かに母は女学校を出ているがそれも戦時中のことで、授業などろくに受けていなかった。天秤棒を担いで、空港を作っていたというのだ。英語などは、敵国語だといって、全く習わなかったという。そんな環境で、色んな知識を吸収できるわけもない。
 しかし、幼い私も、いつしかそんな母のことを何も知らない人なんだと、思いこむようになっていた。

 そんな、何も知らないと思っていた母に、心で「あっ」と声を上げたのは、小学校の高学年のときだった。
 七つ年上の兄は、頭がよく、両親から期待されていた。高校一年生の段階で、どんな大学へでも行けると、太鼓判を押されたぐらいだった。
 そんな兄も、きっと勉強、勉強とせっつかれることに嫌気が差したのだろう。
 ある朝、学校へは行かないと言い出した。
 そして、母と口喧嘩の挙句に包丁を持ち出して、死ぬとまで言い始めたのだ。

 母は、普段はとても温厚だ。
 その母が、いつもと違う大きな声で、落ち着いて兄にこう言った。
「人間、包丁ごときで死ねるか。人間、死ぬときは苦しくてのた打ち回るもんや。綺麗な死に方、教えたろ。
剃刀と、ビニールのシートと、紐、もっといで」
 兄は母の気迫に負けて、何も言わずに学校へと出かけて行った。
 母はその後、剃刀や紐をどうやって使うのかを、私に教えてくれた。
 しかし、最後にこう付け加えた。
「雅世、死ぬ気になったら、人間、なんでもできる。自分で自分の命を絶つのが、一番辛くて大変なことやねんで」

 そんな母が、受話器の向こうで涙声になっている。
 原因は、私がお歳暮に、春らしいからと黄色い花束を贈ってしまったことにあった。
 一瞬、黄色では差し障りがあるかと思ったが、その可憐な佇まいに送ることを決めた花束だった。しかし、母は、哀しみの花束のようなので受け取れないと、配達に来た花屋に突きかえしたのだと言う。
 兄は今、香港にいる。そして私たち家族はアメリカ。
 もう、何年も、夫婦二人だけで正月を迎えているのだ。
 カレンダーをめくってみる。
 インフルエンザも流行っているだろうが、やはり、今、帰らなくて、いつ帰るというのだろうか。
 久しぶりに、母に甘えてみよう。
 いっしょにケーキを焼き、紅茶を入れ、色んなことを母と娘として、女性として、語り明かそうか。

 黄色い花束は、ちょっと高くついたが、久しぶりに両親の顔を見れるきっかけを作ってくれた。

  

1999/02/10




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