雛の段
緋毛氈が、目に鮮やかだ。
娘の初節句に私の両親が贈ってくれた雛人形を見つめる。
バブルの時期に購入しただけあって、細工も素晴らしければ、その大きさも只者ではない。
ふと、雛壇に登りたかったなと、回想してみる。
小学校では、学芸会というのがあった。
小学校一年生のとき、担任の先生が教科書に載っている話しとお雛様をふくらませて、授業中に面白い話しをしてくれた。お雛様は、夜中には遊んだり踊ったりしているのだが、朝になると元どおりになっているというものだった。しかし、ある朝、お雛様が甘酒で酔っ払い、みんなが目覚めるのに気がつかずにいるとどうなるか、といったような内容だったと思う。
クラスはその魅了的な話しに引き込まれ、それをみんなで劇にしましょうと言われたときには、もう収集がつかないほど、興奮していた。
やはり、みんながなりたいと思うのは、主役だろう。
この劇での主役は、誰なのか今ではよく思い出せない。しかし、出ずっぱりの雛壇に上がる人たち、特にお内裏様とお雛様は、断然目立つ役だった。
なんせ、緋毛氈の上で、十二単や冠をつけて座るのだから、クラスの少女たちがその役につきたいとざわめきったったのは、いうまでもない。
私も、そんな少女の一人だった。
配役の決定は、立候補と、クラスからの投票で決められた。
まあ、今から考えれば、人気と美人度がこれで判定されたのだろう。
不美人な私は、見事に落っこちた。
三人官女からも、落っこちた。
その後は、五人囃子に立候補する気力も失せて、ぼーっと教室の外を眺めていた。
父と母は、美男美女カップルだとだれもが言ったが、そういったことを口にする人が私を見ると、「まあ、お嬢ちゃんは、なんで……」と、語尾を必ず濁らせた。
祖父にいたっては、「結婚するにはお金を積まな、貰てはもらえんやろ」と、私の目前で言うし、きわめつけは、こんな母の一言だった。
「雅世、女は、顔やない。女は、優しさや」
素敵や洋服を着ていても、持ち物か、洋服しか誉めてもらえなかった。そんな色黒でチビでガリガリの少女の、決定的な敗北の日だった。
こんなにおへちゃな私は、きっと誰とも結婚できないと、密かに悟った日だった。
学芸会での私の配役は、見事にその他大勢で、みんなが一番嫌がったヴァイオリンを弾くものだった。
私の通っていた小学校は変わっていて、小学校一年生には、全員に学校でヴァイオリンを習わせるのだ。だが、だいたいの子はヴァイオリンが大嫌いだった。
確かにヴァイオリンを教えてくださった先生は厳しくて、ぼやぼやしていると、ヴァイオリンの弓が指に振り下ろされた。音楽家として、滅茶苦茶な雑音を許せないという態度が、子供たちのヴァイオリン嫌いを助長させていた。しかし、音をきちんと出しテンポよく弾けば、先生はにこにことして、とても優しかったのだが。
みんなが嫌いなヴァイオリンも、私は好きで、まあまあ上手に弾けていた。
だから、特別ヴァイオリンの練習をすることもなければ、特別劇の練習をすることもなく、小道具を作ることもなく、みんな楽しそうに台詞を覚えているのを、はたから見ていたのだった。
学芸会当日は、踊りのお師匠さんをしている人がクラスの父兄におられて、袴をつけたり、大騒ぎだった。扇や、金ぴかの柄杓を持って興奮している友達を見て、羨ましくて、哀しかった。
母親たちも、我が子の晴れ舞台を見にやってきていた。
母は、見にきてくれたのだろうか。
どうだったか、覚えてはいないが、見にきてくれなかったようにも思う。
幕の合間に、どうしても舞台の上の緋毛氈を敷き詰めた雛壇に上がりたくて、私は少し足をかけて登ってしまった。
そこを、運悪く、担任ではない先生に見つかった。
「こら!」と、大声で怒鳴られた。
もしも、私が美少女なら、雛壇に登れていたかもしれない。しかし、もっとちやほやされて育っていたら、今とは全く違った性格になっていたかもしれない。
そう考えると、あの時の挫折も、まんざらマイナスだけに働いたのではないと、考えてみたりもする。
でも、やはり、不美人よりも美人のほうが特だろうなと、考えてしまう。
雛壇を見ると、どうしても思い出してしまう。
衣装を着ることもできず、台詞も言えず、ただ、ヴァイオリンを悔しい思いをしながら弾いたことを。
1999/03/03
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