先生の一言
ある掲示板で、昔、私が先生から言われた一言を、ぽろりと呟いてしまった。
中学一年生の私に投げかけられた一言は、やはり気にしないでおこうという意識とは裏腹に、どうやら私の心の底で、澱のように沈み、住みついていたらしい。
小学生の私の絵は、よく教室や廊下に飾られた。
図工の先生は日本画家で、私の絵をいつでも誉めてくれた。
私の絵の良さは、美しい色彩だと言ってくれるのだ。濁った色で絵を描くと、自分の絵を描けと諭された。
そんな先生に恵まれて、こども二科展で賞状をもらったこともある。
中学に入ると、そんな私に、父や母は木でできた絵の具箱を与えてくれた。
私は彫刻刀で自分の苗字をアルファベットで彫り、そのニスが削れ剥き出しになった木の肌に赤い絵の具を塗りこんだ。
その絵の具箱を持ち、一番初めの美術の授業でしたことは、友人のデッサンとそれを水彩絵の具で仕上げることだった。
くじで負けた同級生一人が机の上に乗せられた椅子に座る。
濃い鉛筆を走らせ、それから色を塗った。
モデルになった同級生の名前も、髪型も、顔も覚えている。
筆を動かす私の後ろに、美術の先生が立った。
痩せぎすのきつい感じのする男の先生だ。
動かない。
視線を感じる。
なにか冷たいものを感じて、私は振り向けずにいた。
「なんだこれは!! お前の絵は、絵じゃない」
そうだ、私の背後で先生はそう叫んだのだ。
数日前に同級生になったばかりの好奇心丸出しの目が、私のスケッチブックを覗く。
いたたまれなかった。
頬が熱くなるのを感じた。
自分の中にあった自信が、一瞬にして吹き飛んだ瞬間だった。
その後、いくら提出物をこまめに期限までに出しても、私の美術の点数は2か良くて、3だった。
父や母は、私がさぼっているのではないかといぶかしんだが、NOとしか言えなかった。美術室でぶつけられたその一言をどうしても話せなかった。
私のプライドが、その一言を私の口から言わせるのを拒否していたからだ。
あるとき、美術の授業とレクリエーションをかねて、奈良公園に写生に出かけたことがある。
全部で5クラスの1学年が電車に揺られて奈良公園へと出かけた。
私が描いたのは、興福寺の五重の塔だった。
それを描こうと、もう学校を出るときから決めていた。
使ったのは、黒の四角いコンテだけ。
先を尖らせて線を描き、その線が鈍くなると、また紙片にコンテをこすりつけて鋭くした。
瓦も、塔の上に載った相輪も、一部だけを描いた。
それだけ描き終えると、私は鹿の瞳を見に、奈良公園をほっつき歩いた。
一週間後だったろうか。
そのコンテで描いた絵の上に、水彩絵の具をのせた。
美術の先生に気に入られるように、水で色を滲ませ、濃く、淡くぼかしていく。
全部の色が載せられたと筆を置いたとき、「ちょっとええか」と、スケッチブックの端を持つ手が見えた。
「水彩画というものはな、こうやって描くんや」
私の絵は絵ではないと言いきった同じ人が、今、私の絵を誉めている。
そのときの私は嬉しかったか?
それは、その先生受けすると思った絵を描いたまでのこと。
あれは、私の絵じゃないと、心で呟いた。
「点数なんて、もう、ええわ。私、自分の絵、描くわ。」
そう、呟いた。
そしてその後2年間、私は私の好きな絵を描き、そして2か3という点数をいただいていた。
中学3年生のとき、受け持ちの美術の先生が、もう一人いた男性の若い先生に変わった。
そのとき、私はビアズリーに夢中になっていた。
画集を開き、買ったペンとインクでビアズリーの絵を模写していた。
秋だっただろうか。
美術の時間で、好きな本を選び、左に絵、右にその文章を書くという課題が与えられた。
私は、中国の皇帝が天体観測を命じた家来の首をはねるという物語を選んだ。
もちろん、絵はすべて黒のインクで描く。
文字の部分は黒い画用紙を切りそこに白で文字を入れた。
本の一ページのように、絵と文字のまわりには、ぐるりと絵を入れた。
ビアズリーの挿絵の影響だった。
床は白と黒の市松模様。
壁は孔雀の羽の柄。
刀を振り上げる皇帝。
そして、飛ぶ首。
細かい絵だったために、時間がかかった。
しかし、私は没頭していた。
ある日、お昼休みに美術室に呼ばれた。
絵を持って来いと言われたのだ。
少し、期限が過ぎていたかもしれない。
美術室で寛いでいた先生は、私の絵を見た。
「誰が、色画用紙使てええ、言うたか?」
「色画用紙使たらあかんとは、聞いてませんでしたし、私はこのやり方が一番ええと思てますから。」
先生が、にんまりと笑った。
「そやな、絵の大きさは指定したけど、画材までは指定せえへんかった。それは、ええ発想や。もうすこし、字、白で濃く描け。それで、描きあがったら、すぐに体育館へ持っていってくれ。」
「はあ?」
「いったら、わかるから」
放課後、白い絵の具で文字を濃く描くと、体育館へ行った。
金木犀の香りがしていた。
体育館の中にはパネルがたてられ、書道部の作品やら華道部のお花やらが飾られていた。
パネルを一枚ずつ見ていく。
そこに、あったのだ。
たくさんの物語の挿絵が描かれた画用紙が貼られているなか、特等席に、一つだけ空間が。
「ここに、絵を貼っておくように」
パネルに貼った走り書きをむしりとり、私は手に持った絵を、4つの金色の画鋲で力強くとめた。
私は、にやりと笑った。
その笑いの下、なぜか涙が出た。
それを誰かに見咎められるのが嫌で、足早に体育館を後にした。
「ひとこと」、それは、重い。
それで傷つくこともあるが、それをバネにすることもできる。
しかし、バネにできたとしても、やはりその一言は心から消すことはできない。
私はその後、高校では美術をとらなかった。
中学高校と一貫教育の学校へ行っていたので、美術を選択するということは、あの中学校1年2年で教わった先生にあたる可能性があったからだ。
私は怖かった。
認められず鬱積した自分を励ましながら絵を描くのは、できそうになかったからだ。
それでもあきらめきれず、私は下手な絵を描きつづけている。
そしてやっと、この歳になって、この口からあの言葉を出しても胸が痛まなくなったのだ。
もしも、これから先生にあるいは親になる人には、できるだけ子供の良い部分に目を向けて欲しいと思うのだ。
良いところは、もっと伸ばし、自信をつけることによって、弱かった部分ももっと肉付けされ豊かになっていくのではないか。
弱い点や駄目なところを指摘しているだけでは、才能の芽は摘まれてしまう。
そして、大人の思いこみや嗜好が、芽を摘んでしまうこともある。
もしかしたら、私は二度と絵が描けなくなっていたかもしれない。
しかし、私はたった一枚のあの張り紙で癒されたのかも、しれない。
そう思うのだ。
2000/01/21
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