35グラム




ある人の日記を読んだ直後、自分はどうだったかとプルシアンブルーの空を見上げてみた。

晴れ上がった空を見上げたとき、それが哀しいか、それとも喜びか。
ひとえに、その日の自分の気持ち次第で決まるものではないかと感じながら、イグニッションキーを差しこみエンジンの振動をぶるんと感じた。
でも、あるのだ、哀しさが。
そんな晴れた空、一点の曇りのない空の下にいるからこそ。
こうやって地球は回り、季節は流れ、そして雨も降り、晴れもする。
でもいつの日か、確実に私はここからいなくなる。
同じように陽が昇り沈みするこの鎖の輪から、ひっそりと抜ける日が来ると。
それは、私の哀しさに繋がっていく。

35グラム、それは魂の重さらしい。

死後、その遺体を計ると、35グラム生前より軽くなるというのだ。
肉体は魂の入れ物にすぎないとどこかで読んだ記憶もある。
それでも魂は存在し続けるのか。
それは、そうでもよいし、そうでなくてもよい。
私にとっては、この肉体と魂が出会った一期一会が重要だ。その後、魂が離脱してからのことには全く興味はない。
一つの区切りとして、この肉体にこの魂が宿る刹那、大切に生きていきたいとそう願っているだけだ。

35グラム、どのようなものなのだろう。
皮で巻かれたハンドルを握り締めながら、赤信号のときのだけ少し想像する。

きっとそれは、宮沢賢治の『貝の火』に出てくる美しい珠のようなものではないか。
水晶の珠のようで、中では花火のような炎が燃えている。一つところに形をとどめるのではなく、風が吹くように、息をするように変化していくのだ。

不思議なもので、想像しだすと私の脳はその像を結び始める。
手には、ひやりとしたその肌触りが。
それはずっしりとしたように見えて、羽のように軽い。

その炎の色はどんな色だろう。

子供は絵を描くときに、自然と自分に似合う色を選ぶのだそうだ。
それを発展させ、4つの季節に色をグループ分けし、自分に似合う色を探すメソッドもあるぐらいだ。
もしかして、この自然に選ぶ色がその人の魂の色かと考えていたのだ。

いろんな人のホームページを散策してみればわかる。
どんな色を使っているのか、どんな壁紙を使っているのかで、なんとなくその人がわかってくるような気がする。
それは、魂の引き寄せる色
顔も合わせたことのない人のその魂の色はこんな色ではないかと、夢想してみる。
さて、私ならどうだろう。
大好きなあの色と、この色と。

想像で出来あがった私の魂の「貝の火」を、私は暗闇の中で覗きこむ。

私には、美しいと思っても使えない色がある。
それはもしかしたら、自分の魂の「貝の火」にはない色なのかもしれない。
その色を美しいと思いながらも、それに染まれないと感じる自分は、憧れの目をしてその色を見つめる。
畏敬の念。私はそこには属せないという、小さな悲しみのかけら。
でも、それがあるから、同じ色を湛えた魂に、そして、自分とは違った炎の色を持った他の人の魂にも、やはり美しいと感じ惹かれるのだろう。

さあ、青信号だ。夢想はやめて、真剣に運転しなければ。
学校では、息子が私のお迎えを首を長くして待っているはずだから。



2000/05/11



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