見たくないのにな





日本に帰って、一番困るのは目のやり場だ。
それは日本のお嬢さんがたの服装のせいでない。
電車や本屋、それにパソコンショップなどで、私は子供たちの目を手で覆いたくなる。
そう、どこに行っても女の子の裸やエロティックな雰囲気の顔のアップが溢れているからだ。写真だけではなく、アニメーションでも然りなのだ。
電車の中の吊り広告だって、どきりとするものもある。

そんなの、かまわないじゃないか、そう思う殿方もいらっしゃるだろう。
なんせ、私がOLだった時代では、会社の男性社員が自分の机の上にヌードの卓上カレンダーを出していても許された。
でも、ちょっと視点を変えていただきたい。
この世の人間の半分は男性だが、半分は女性であることを忘れていただきたくないのだ。

見たい人は見ればいいと思う。
時と場合をわきまえれば、どうぞ、と、言いたい。

いつしか、私の息子も自分の部屋にそんな写真が入った週刊誌を持ちこんだり、あるいはインターネットでエッチなサイトを見つけて楽しむ日が来るだろう。
私は、その行為まで否定する考えは毛頭ない。
彼だって男だ。やはり、本能として女性の裸を見たいという欲求はあるだろう。
でも、TPOをわきまえて自分一人で楽しむのなら、私は文句は言わないつもりだ。
それを、電車の中や家族の集まるファミリールームで見るのなら、私は注意するつもりでいる。

でも、一番見せたくないと思うのは、娘にだ。

女という性に生まれて、その性を商品のように取り扱う大人がいること、自分と同じ性の若い女性が自分の肉体を見せていることを、まだまだ娘には見せたくないと思うのだ。
それは、女性が自分の部分を商品として売っていることだと思う。
それが良いか、悪いか、自分はどうしたいかは、本人が考えればよろしい。

しかし、私が嫌だと感じるのは、そういった「女性の性が商品化されている」ことを、ごく当たり前のようにしていつも見て育ってしまうことだ。それを見ても、それが普通だと受け付けてしまうことだ。
誰でもやっている当たり前のことだから、私も脱いだって何したって何だっていいじゃん減るもんじゃなし、という安直な発想に結びついたとしたら、それはとても怖いことではないか。

自分の性と向き合うことは大切だ。
できればその性を受け入れて、自分の性を好きになってもらいたい。
女性の場合どうしても初潮から後、自分の性に向き合わざるをえなくなる。
私にとっては、その性を受け入れることは困難だった。
どうしても、産む性に生まれてしまったことを受け入れられないでいた。
どの女性も、こんな不協和音の一時期を体験するのではないだろうか。
悩んでもいい、立ち止まってもいい。
でも、自分の体と自分の性を大切にして欲しい。

「女はただの商品か?」私は子供のときに裸体の写真を見てそう思った。
そして、自分が女として生まれてきたことを、哀しく思った。

いつかは、いくら親が隠していても、子供たちはそんな写真を見るだろう。
しかし、いつかそんな日が来るとしても、年端のいかない娘に、そのような画像は見せたくない。
もっと、気持ちが大人になってからだって、いいじゃないかと思うのだ。

だからこそ、女性の裸体がテレフォンショッピングや通信販売のような手軽さでどこにでも転がっていて欲しくない。

私は、鍛えられた人の体は美しいと思っている。
しかし、単に男性のその場かぎりのエロティシズムを刺激するだけの女性の裸体写真などには、全く美しさを感じない。
ときたま、日本からの出張者が親切心で夫に週刊誌を置いていってくれるが、そんな週刊誌の中の写真を見て、裏寂しくなってしまう。

日本は、「おっぱいべろりん」の国だ。
電車の中でも、そしてテレビだって、かなり際どいものが吊り下げられ、放送されている。アメリカでは絶対にありえないことが、日本では空気のようにあちこちに存在している。まったくもって、「べろりん」なのだ。
電車に乗った男性が、女性の裸体の写真を食い入るように見つめている視線には、虫唾が走る。

ああ、世の中には見たくない人もいることを、見せたくないと思っている人もいることを、本当に忘れないでいただきたいものだ。




2000/05/26



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