「ねえ、どうして赤ちゃんってその手を握り締めてるか、知ってる?
あのね、それはその手の中にたくさんの希望や可能性が入っているの。それを逃がさないようにって、握り締めているのよ。
でも、しばらくすると、赤ちゃんは手を緩めていくでしょう。そうするとね、あの指の隙間から、どんどん希望や可能性は零れ落ちてしまうのよ。
そうやって、大人になっていくの。」
友人はちょっと寂しそうな顔をして、そんなことを話してくれた。
赤ちゃんの握りこぶし、それは初めて母親の胎内からこの世に出た驚きとショックで握り締められているにちがいない。
でも、私はその手には、始めは何も入っていないのではないかと思うのだ。
母親に抱かれ、見つめられ、話しかけられ、あやされて、赤ちゃんは自分が愛されていることを知っていく。そして、その小さな手をひらき、母親の指を掴む、乳房をまさぐる。
そうやって、何もなかった赤ちゃんの手には、さまざまなものが握り締められる。
愛も、知識も、言葉も。それは夢になり、自信になり、それがあってこそ、また大きく手を広げて他のものも掴もうとしていくのではないか。
でも、確かに失ってしまうものもあるだろう。
いつのまにか、零れ落ちてしまうものもあるだろう。
掴み損なってしまったものもあるだろう。
でも、始めからそれがこの手のなかにあったとは思わないで欲しい。
もし掴み損なったとしても、手に入れようとした努力を忘れて欲しくない。
そして、失うことや掴めなかったことによって、初めて得られる心の痛みや、それによって初めて育まれていく心の優しさといったものが残ることを、忘れないで欲しい。
その痛みはきっと人を大きくするから。それは、絶対に人にとって無駄なことではないはずだから。
だんだんと、もとにあったたくさんのものが、大人になるにつれてその手から零れ落ちていくと考えてしまえれば、それはそれで楽かもしれない。
でも、私はそんな考えに自分を染めたくない。
そうなれば、成功した人の努力すら見ないで、ただ成功だけを羨むことと同じだから。
そして、ただ目に見えるものだけを追っているのと同じだから。
人は目に見えるものを羨みやすい。それは簡単に見えるものだから。
でも、見ない部分にこそ目を凝らしたい。
そう、人の手は暖かい。
赤ちゃんの小さな手も暖かいと思うが、年月を乗り越えた皺の刻まれた手が背中におかれたときも、どうしようもなく一人でただ自分の体に巻きつけた手で自分を抱きしめたときも、やはり何ともいえぬ温かさをその手から感じるのは、私一人ではないだろう。
いつまでも、手を広げていたい。そして、もっと温かな手になりたい。
私はそう思っている。
2000/06/04