夫との結婚が決まったとき、どんな形式で結婚式を挙げるか決めなくてはならなくなった。
私は、神前結婚だけは避けたいと思っていた。
夫と私は背が低い。
これで、和装したら、七五三の千歳飴の袋を持ったほうが絶対に似合ってしまう。
でも、一番大きな理由は、神前での誓約書が気に入らなかったのだ。
私は、親戚の神前結婚に立ち会ったことがある。
実は、そのときとてもショックを受けた。
神前結婚では、長い誓約書を新郎が読み上げ、最後にその氏名を名乗る。新婦といえば、ただ名前だけ。私の場合なら、最後に「雅世」と自分の名前だけを言ってお終いなのだ。
私には、どうにもこの誓約書が納得できなかった。
これから夫婦になって自分たち二人で、家庭を築き、人生を築いていくのに、その一番始めの式の時点から妻は名前だけしか言えないというのは、変だと思ったのだ。
お互いの意思が確認できないまま、お仕着せの誓約書の最後に自分の名前だけを付け足すなんて、まっぴらだと思ったからだ。
あともう一つ、どうしても白無垢を着たくなかった。
私が色黒だからという問題ではない。
あの白無垢から、色打掛に着替えるのが嫌だったのだ。
白無垢は何故真っ白かというと、その家の色に染まるために純白なのだという。
真っ白な女性がその家の嫁として、その家の色に染まっていくということなのだ。
だからこそ、式は白無垢で行なうが、結婚してもうその家の嫁になりましたという段階で、色打掛に替える。そのことが、どうも私にはしっくりとこなかった。
私は「お嫁に行く」とか「その家の嫁になる」という感覚はなかった。
私は夫と「結婚する」という意識しかなかったから、色打掛に着替えるのに、とても抵抗があったのだ。
私がもっと若かったら、「家」というものにこだわらずに、「あなたの色に染まります。染めてください、白無垢の私を」などと可愛いことを言ったかもしれない。しかし、結婚を目前にした私は、そんなことなどこれっぽっちも言いたくなかった。
今まで、ほんの数十年生きてきて、恋もした、失恋もした。嬉しいことも悲しいこともあって、今の私がいる。それはフィアンセである彼も同じこと。今までの恋人との想い出を彼の口から聞くと嫉妬の気持ちが顔を覗かせるけれど、それがなかったら、今の彼とは違った彼がそこにいるに違いない。
私も同じだ。
今までの過去は消せないし、消したくない。良いところもあるし、悪いところもある。でも、そのままの彼を愛したいし、愛されたい。
だからこそ、染まることなく、そのままの私で結婚したいと考えた。
結局、私たちはキリスト教の式を選び、神父さまの前でお互いの誓いを大声(リハーサル中に小声で「はい」と言うと、やり直させられたのだ)で誓い、私はそのままの白いウェディングドレスで披露宴に出た。
でも、そんな私だって、その当時は形式に振りまわされていたのかなと、思う。
本当に大切なのは、結婚式の後だ。結婚式はただのスタート用の儀式にすぎない。
だから、結婚式をしなくても、立派に家庭を築くことはできる。結婚式や白無垢やドレスなんて、ちょっとした式の付属品でしかない。一瞬だけのお楽しみ(女性にとってはね)だ。
一番大切なのは、これからいっしょに暮らそうとしている二人の気持ちなのだと思う。
夫は、もう二度と披露宴なんてしなくていいといっている。
それでも、やはり時々、「白無垢も着てみたいわ」などと言うのは、私だけだろうか。
白無垢だった女性は、ウェディングドレスを着てみたいと、思うことはないのだろか。ちょっと疑問だ。
うん、それでもやっぱり、一度は白無垢を着てみたいものだ。
2000/06/05