あれは、いつの夏だっただろうか。
私はネットで一人の詩人に出会った。
切なく甘い恋の詩に魅せられて、その詩への返歌を送った。
詩人はその返歌を気に入ってくれた。今から思えばビギナーズラックに近かったのかもしれない。しかし、もう少し考えれば、それはある意味では正しいことをした結果だったのだと思う。
その時、私は自分の作った文字列を「詩」とは呼べなかった。敢えて、「散文」と呼んでいた。
私はよちよち歩き出した「散文」という自分の言葉たちを、彼の詩に触発されて書き始めた。
その後詩人はHPを閉じることになり、詩人との交流は私が先に「散文」を書き、彼が返歌をそれに寄せるという形に変わった。
その時、気がついたのだ。
恋をしていない私に恋の歌は書けないのだと。
どんなに切ない言葉を並べても、本当に切ない恋をしてる乙女たちの零した言葉にはかなわない。
私は行き詰まりを感じ、詩人と私とのコラボレーションも終わった。
私のビギナーズラックがある意味で正しいことをした結果だという理由は、簡単だった。それは、自分が書きたいことを素直に書いたということ。
散文に書くのも慣れると、欲が出る。
よく見てもらおうと、美しい言葉を捜し、言葉を連ねる。
私の散文は長くなっていったが、自分の気持ちとは離れてしまっていた。
私は言葉探しを止めた。
そのかわり、自分の心の中を探検しはじめた。そして、自分の生活を見つめることを始めた。その何でもないごくありふれた一日にいて出てくる想いがある。
喜び、辛さ、切なさ、そして時には怒り。でも、それは私の心の底から出た想いであり、それを自分の言葉を使って表そうとした。
その舞台が架空のものであることも、現実のものであることも両方ある。しかし、そのどちらでも、自分が伝えたいと思う想いがなければ、詩は書けないのだと痛感した。
そのことを感じたときから、私は自分の言葉の集まりを「散文」と呼ばず、「詩」と呼ぶようになった。
散文では思うがまま書き連ねた言葉を、詩では、削っていくのに徹するようにした。
長くなった詩からどんどんと言葉を削り出し、自分の心がそこに残る最低限まで削っていった。
今でも詩が書きあがったときにする推敲は、付け足すことではなく、削ることだ。
少ない文字からは、何も受け取れないこともある。
少ない文字からこそ、こちらがこらえても涙が溢れ、結んだ唇から嗚咽が漏れることもある。
それは、その詩が発信するか細い電波を読み手がキャッチできるかどうかの問題だけなのだと思う。
他の人が素晴らしいといった詩が、私にキャッチできるはずもなく、そしてその逆もありえる。
ただ思うのは、詩は言葉の羅列ではないが、言葉の羅列にもなりうるということだ。
その人の滾る想いがその根底にあり、それが少ない言葉でこちらに提示されている。
その想いに触れることができれば、人は感動する。そこまでに行きつけなければ、やはり言葉の羅列だけで終わってしまう。
そして、書くほうにとっても、何を伝えたいかの想いのない綺麗ごとの文字列は、やはり相手には何も与えない。そして、自分にも何も残さない。それは詩の形をもじった、言葉の羅列にしかすぎないのだから。
詩とは、そういったものであって、それで十分なのだと、私は思っている。
2000/07/12