私が法律的に自分の意思で結婚できる年齢に達したとき、父はこんなことを教えてくれました。
「誕生日を覚えていたり、記念日に花束を贈るのが男の優しさだと思ってはいけないよ。」
きっとこの一言があったから、私の夫は随分と助かっていると思います。
冗談はさて置いて、この「優しさ」というものに対して、今私が思っていることを少し書いてみたいと思います。
このごろ、「優しさ」という言葉がどうやら「心地よさ」のほうに振り切れているのではないかと感じることがあります。
お腹にやさしい、お肌にやさしい、地球にやさしい、そういった商品は大歓迎ですが、人までがそちらに振れていないかと思うのです。
優しいことは素晴らしいことです。
優しくされて、怒る人はいないはずです。怒ったふりをしても、心の中では頭を下げてしまいます。
でも、本当の優しさと、ただの心地よい優しさは、その生まれ出るところが違うのではないかと思うのです。
優しさには、大きな落とし穴があると思います。
以前、こんなドキュメンタリー番組を見たことがあります。
それは、悪い男性にのめりこみ、その男性に貢ぐためにどんどん堕ちていった一人の女性が、一人の僧侶に出会って出家するという内容でした。
その番組を、違和感を抱きながら見続けていたのですが、決定的に私に受け入れられないと感じたのは、僧侶が落飾して泣きじゃくる女性を抱きしめて言った一言でした。
「大丈夫、私の言ったとおりにしていれば、もう、大丈夫なのだから。」
その女性は以前のようにもう男性に貢ぐこともなく、落ち着いた生活を送ることになるでしょう。
でも、それだけでは彼女の気持ちは決して癒されないと思うのです。ただ、男性に一生懸命になっていた矛先が宗教とカリスマ僧侶へ向かっただけで、彼女の内面は何一つ変わらないのではないかと思うのです。
このような依存しきった状態では、彼女は自分で自分の人生を決めていくことなど出来なくなってしまうのではないでしょうか。それは一見潔い修行生活に入ったように見えて、私には一種の逃げにしか映りませんでした。
もしもカリスマ僧侶が彼女の目前から消え去ったとき、あるいはその依存を支えきれなかったとき、彼女はどうなるのでしょう。
ただの心地よい優しさには、これと同じ落とし穴があると感じます。
相手も自分も傷つかないようにと、一時凌ぎの優しい言葉を鎖のように繋いでいき、相手の欲しがる言葉を自分の分も弁えずに与えつづけたとしたら、それは相手をどっぷりと依存させる罠にはめてしまっているのと同じではないでしょうか。
その罠には、今まで立っていた足を挫き、見えていた目を塞がせてしまうという危険性が潜んでいるのではないでしょうか。
本当の優しさは、愛から生まれ出ると思います。
これは、男性と女性間の愛ではありません。人と人としての愛です。お互いが存在しあうことを認め、その存在を感謝することから生まれる愛です。だからこそ、それは果てしなく、枯れることはないと思います。
しかし、この優しさには痛みを伴うことがあります。
ただの心地よさだけから派生しているものではないから、同情や上辺だけの優しい言葉とは違ってくる部分が出てきます。
相手の立場になり、自分も相手の心の痛みを自分の心で感じながら、それでも一歩踏み込んだ言葉を投げかけることになります。
ときには文字どおり、優しい言葉や行動になって現れることもあれば、別の形で現れることもあります。
しかし、そんな痛い言葉を受け取ったとしても、耳をよく澄ませたり、目を凝らしてみれば、今まで自分が見ようとしていなかった部分を、相手が気付かせるために敢えて口にしてくれた言葉だったということに気が付きます。そんなとき、私は相手からの優しさをしみじみと感じます。そして、自分の痛みだけではなく、そこまで私のことを考えて一歩踏み込んでくれた相手の気持ちと、その言葉を出したときの相手の痛みも二重に感じ取ることができます。
言葉をくださった人には、私を一人の人間として認め、依存ではなく、対等な関係を保って見守ってくれているということに、感謝したいと思うのです。
それは、私という人間を信じてもらっているという証ですから。
そしてそんなとき、私は私にずっと注がれている暖かな視線を感じ取っています。
優しい人ほど、何も言わなくても、あなたを見ていてくれるものではないですか? たとえ、どんなに距離が離れていようとも。
人はかさぶたを作り自分で怪我を治していくように、自分で自分の心を癒すことができます。言い換えれば、どんなに偉い人でも、人の心を癒すことはできません。きっかけを作り出すことはできても、自分の心を癒すのは、自分しかないと思うのです。
本当の優しさは、相手の領分にまでは決して入らずに、手助けができるときに自分の分をわきまえて差し出すものではないでしょうか。そうして、相手が自分の力で立ち上がるのを、じっと見つめているものなのではないでしょうか。
最近、父が教えてくれた男の優しさというものは、人間の優しさなのではないかと感じることがあります。
それは、お互いがこの世で尊い存在であるということを認めることから始まっていると思うのです。ただのもたれ合いや馴れ合いや、甘えや甘やかしとも違ってきます。心の底から出る優しさなのです。
そして、できれば、私もそんな優しい人になれればと思います。誰にとっても優しい人には、なれなくとも。
最後に、私が「優しさ」という言葉について考えるきっかけを作ってくれた素晴らしい言葉を紹介しておきたいと思います。
◆◇◆
「私自身は何の力も持ち合わせていない。力というものは、私を支えてくれている人々が持っているものだ。
力ではなく、強さについて質問しているのならこう答えよう。
本当の強さとは、優しさだ。」
2000/09/05