いつか結婚するだろう君たちへ






愛しい娘と息子へ

結婚とは、夫婦とは。
そんな堅苦しい話しを君たちにしようとは思わない。
夫婦は100組あれば、100通りの夫婦のやりかたがあると思う。
君たち二人に、先に生まれて生きてきた先輩として、自分の考えた、あるいは感じたことをここに残しておきたいと思っている。これは何億といるカップルのそのまたカップルの片割れが言うことだ。全てが真実だとは言いきれない。しかし、こう考えた人もいるのだと、そう思って読んでもらえればと思う。

イギリスの諺には、「結婚する前は相手を両目で見よ、結婚して後は片目で見よ」というのがあるらしい。もっともなことだと思う。
結婚は福祉事業でも同情で成り立つものでもない。
結婚はお互いが二人の人生を寄り添って作り上げていくものではないかと思っている。イメージとしては、二つの車輪を持つ車のようなものだ。片方の車輪がなければその車は立っていることができない。また、片方が動くことを止めてしまったら、片方がいくら前進しようとしても、ただ輪を描いてくるくると同じ所を回っているだけになってしまう。
お互いが、自分の轍を刻みながら、前進する意思がなければ、やはり夫婦というものは成り立たないし機能しないのだと思う。

私の結婚式のとき、こんな祝辞をいただいた。
「結婚には3つの期がある。恋愛期、倦怠期。それを乗り越えて、初めて本当の夫婦になれる」 天邪鬼な私は、絶対に恋愛期の中に留まろうと思った。
イギリスの諺も、自分の中では書き換えてしまった。
「結婚して後も両目で見続けよう」

両目で見続けるということは、粗捜しをするわけではない。相手の変化、それも良いほうへの変化を両目を開いて見続けることだ。

結婚を決意するからには、きっと相手の中に何かを見出して結婚するのだろうと思う。優しさかもしれない、聡明さかもしれない。そういった自分が相手に対して惹かれ尊敬しているところに、結婚後も目を凝らしつづけて欲しいと思うのだ。
人間、ずっと同じでありつづけるわけにはいかない。目尻に皺はできるだろうし、腹も出てくる。しかし、聡明さに暖かさが加わるかもしれないし、優しさに慎重さが加わるかもしれない。
そんな相手の人間としての変化を喜びながら見つめることができたら、一緒に暮らしていることは楽しみにさえ変わるのではないかと思うのだ。

人は会えないと相手に想いを募らせるが、その相手と毎日暮らすようになるとその環境にすぐに馴染んでしまう。そして、その想いもだんだんと普段の生活に紛れてしまい、想いが胸にあったことを忘れてしまいかねない。
だからこそ、両目を見開くのだ。

人は老いていく。
まただんだんと夫婦として暮らしていくうちに恥ずかしさや遠慮が薄れていく。そんな部分だけに目を見開いてはいけない。そして、相手に対しても、目にさせるようなことをしてはいけない。
齢を重ねたとしても、いつまでも、魅力のある異性としてお互いに向き合っていて欲しい。

そして、いつまでも自分自身が成長することを、忘れないように。

いつか、「人生最良の決断はあの人を人生の伴侶として選んだことだ」と、結婚後十数年を経た君たちの口から聞きたいものだと思っている。
もちろん、私はそう思っている。


2000/11/09


読んだら押してみてくださいね。






もどる