ある育児書に、子供のおかれている状況を不憫だと親が思うのは子供に対して失礼だと書いてあった。子供は親が愁う環境でも懸命に生きているのだから、そのように思うべきではないと。
確かに一理ある。しかし、やはり親の気持ちは、そうはわかっていてもすっぱりと割り切れるものではないように思う。
アメリカに引っ越したとき、上の子は5歳、下の子は1歳8ヶ月だった。
このまま上手くいけばバイリンガルになってくれるだろうという軽い気持ちで私はいた。確かに上の子はすぐにアメリカの環境に馴染むことができ、学校で言葉がわからないからと悔しい思いをしたのもほんの一、二回程度だった。
しかし、学校に上がるまで充分時間があるので環境にも言葉にも慣れてくれるだろうと思っていた下の子は、なかなか環境に馴染めなかったのだ。
下の子は英語に恐ろしいほどの拒否反応を起こした。上の子が覚えたばかりの英語で話すと、まずは両耳を両手で塞ぎ、それでも話すことを上の子が止めなかった場合には、口を叩こうとまでしたのだ。
アメリカ人が作っているプレイグループに入ってみたものの、楽しんでいるのは上の子だけで下の子は一人で遊んでいた。そして、全く笑わなくなった。ほとんど食べなくなった。
日本にいたときは笑い、人から話し掛けられると言葉は返せなくても、首を振ったりお頂戴をしてみせていた下の子の反応は、夫と私以外の人に対してはぴたりと止まった。
そんな下の子を見るたびに、自分は何か間違っているのかと思うようになっていた。
下の子が3歳4ヶ月のときから、プリスクールに入れることにした。日本でいくと幼稚園の年少さんクラスにあたる。子供が20名に対し先生は2名と、目も行き届くので一安心だと思っていた。しかし、朝、下の子を送っていっても、すぐに電話がかかることが日課になってしまった。電話の奥からは、「泣き止まないので迎えにきてください」との先生の声。一年たっても下の子は英語を話さず、ずっと教室で飼われているハムスターを眺めていた。
このとき、学年末に担任の先生から、名前を呼んでも反応すら見せない下の子は、自閉症か学習障害児ではないかと言われた。そして、早期発見と治療が必要なら今から行うべきだからと、障害があるかどうかを調べる団体を紹介された。
そういう経緯で、下の子は4歳11ヶ月のときにCHC(The Children's Health Council)というところにテストを受けに行った。テストはもちろん有料だ。1000ドル以上かかると言われたが、保険でカバーされなくても私たち夫婦はテストを受けさせようと決めた。
このとき、英語の得意でない私のために、PHP(Parents Helping Parents)という障害を持った子供と親をサポートする団体にいる一枝さんという日本人の方が、資料をCHCへ出す段階から随分と動いてくださった。また、CHCで下の子がテストを受けるとき、日本語の通訳も引き受けてくださった。一枝さんのサポートのおかげで無事テストのメニューを消化することができ、その結果もまた聞きに行くことができたのだ。
この時期、夫はとても忙しかった。自宅に帰る時間は遅く、私は慣れない土地で母親として毎日孤軍奮闘していた。夫に頼れるという状況ではなかった。また、上の子が小学校に上がったことで、現地校と日本語補習校の両方の勉強をつきっきりで見てやらなければならない時期でもあった。下の子を放っておかなければならないことが何度あっただろうか。
私の神経も、相当疲れていたのだと思う。また、下の子に対して日本で暮らしていたならさせなくてもいい苦労をさせてしまったのだという負いの気持ちもあった。父や母から親切心で送られてくる育児書に書いてあることも、私自身が駄目な母親だと烙印を押されているようにしか受け取れず、辛くて数行しか目を通すことができなかった。
そんな状態でテストの結果を聞きに行った私は、不覚にも夫やドクターのいる前で涙を流してしまった。自分はここまで真剣に取り組んできたのに、全く事態は良くならないという事実が、母親としての自信を私から奪ってしまっていたのだ。
結局、下の子は自閉症でもなく学習障害児でもないと判断されたが、これだけ英語の習得が遅いのは社会性のなさが根底にあると指摘された。また、下の子は自分のしたいことだけに固執する傾向があるとも指摘された。いわゆる、インディゴ・チルドレンのような傾向があるというのだ。
彼の先天性の性格もあるが、やはり、言葉が発達のネックになっているという結果に、どうしてよいものかと私たち夫婦は頭を抱えてしまった。
このテストを受ける半年前に、私は下の子に対しては日本語でしか話さず、日本から送られてきたビデオだけを見せ、日本語の絵本だけを読むようにしていた。
それまでは英語を習得して欲しい一心で、「機関車トーマス」のビデオを一緒に見たりもした。しかし、下の子はボリュームをとことん絞ってビデオを見る。ボリュームを上げると怒るのだ。しばらく考えて、なぜボリュームを下げているのか理由がわかった。英語でのナレーションが聞き取れないレベルまで、音量を下げてビデオを見ていたのだ。これに気がついたとき、心臓が潰れるほど悲しかった。彼をここに連れてきたのは、私たち夫婦なのだ。なんとかしなければ、このままではいけない、その二つの気持ちが信号のように点滅しながら私の中でで交錯していた。
さて、英語の習得が遅いのになぜ日本語ばかりの生活に切り替えたのかと疑問に思われるかもしれない。
遅まきながら、母国語が発達しなければ、外国語は入ってこないということにやっと私自身、気が付いた。言語のベースがなければ考えることができない。考えることができなければ、表現することもできない。英語のビデオを見せていてはいつまで経っても下の子は日本語も英語も話さない。
言葉を獲得するために日本語だけに切り替えるのは、私の賭けでもあった。
クラスメートの母親からは、日本語だけにするのは間違っている、英語でのみ話し掛けるべきだと注意を受けたこともあった。それでも、私はこの小さな賭けに賭けてみたかったのだ。
そうやって日本語だけの生活をしたおかげで、テストを受けた直後から、ぽつりぽつりと日本語で話すようになった。しかし、やはり同じ年齢の子供と比べると日本語の発達も遅れていることは一目瞭然だった。
プリスクールで行われる先生との面談は、辛いものだった。
「どんな子でもアメリカに来て半年もすれば話し始めるし、「トイレに行きたい」ぐらい言えるのに彼は言わない。」
「体が小さいし、筋肉が発達していないから重いのものを持てなくて落としてしまう。」
「どんな子でも与えられた課題が嫌なものでもちゃんとやるのに、彼は全くやらない。気分がのらないと、教室の床に寝そべっている。」
そんな報告を受けるたびに、私たち夫婦は小さくなっていった。
次の年の9月、今までの担任が辞めて、副担任が担任に昇格することになった。
この香港出身のチン先生は、副担任の時代、下の子が泣き叫ぶときもその腕に抱きしめて、「大丈夫、大丈夫よ」と子供に話し掛けながら、私には、「母親がいると帰りたくなるから、さあ、帰って。後は、まかせておいて。大丈夫だから。」と、言ってくれた先生だった。下の子にしては、学校で抱きしめてくれる第二の母親の存在になっていたに違いない。
下の子はこの先生がとても好きだというのは、会話の端々でこちらにも伝わってきた。
チン先生は無理強いはしたくないと私に話していた。興味を持つまで、こちらは辛抱強く待っているから、家庭でもそうして欲しいと言われていた。「子供はいつか伸びる時期が来る。一人一人、違うだけだから。辛抱強く待ってあげて」と、何回声をかけられたか。
そして、同じ9月からは公立の小学校で週に3回、スピーチセラピストのフルハーバー先生のところに通うようになった。
このフルハーバー先生は、以前はキンダーガーデン、日本でいくと幼稚園の年長さんクラスにあたる子供たちを教えていた子供が大好きな女性だ。キンダーで先生をしていたときに、英語の発音ができない子供たちを何とか救えないだろうかと勉強して、スピーチセラピストの資格を取ったという。英語を喋るには舌の力がいる。だから両親が英語を話せる家庭で育っても発音ができない子供がいるのだ。
下の子は週に2回は一つ年上の子供たちとセラピーを受け、もう一日は小学校4年生の大きなお兄さんといっしょにセラピーを受けた。
セラピーというと堅苦しいが、教室の中は和気藹々としている。ゲームを中心に、カードに描いてある物の名前を言ったり、言われた言葉をもとに短い文章を作ったりする。
もちろん下の子はカードを見て動物などの名前を言うのが中心だった。
ゲームに負けたとき、"It's just a game."「ただのゲームさ」と負け惜しみを言うことも覚えた。また、4年生のお兄ちゃんとセラピーを受けたときには、負けた人が勝った人に握手を求めて"Conguratulations !"「おめでとう」と言うことも覚えた。
その頃からか、今まで下の子の口からは聞かれなかった、セラピーを一緒に受けている友達の名前や同じ教室にいる子供の名前が、聞かれるようになった。
そして、決定的だったのは10月のある日、彼はこう言ったのだ。
「僕は日本人だよね。だから、家では日本語を話すんだ。でも、ここはアメリカだから外では英語で話すんだよね。」
この日を境に、下の子は咲くのを待っていた蕾のように、開花し始めたのだ。
本来なら下の子は、アメリカの現地校では今年の9月に一年生に入学する年齢に達していた。しかし、言葉の面や精神的な面からもう一年、キンダーガーデンで今までよくしてくださったチン先生のクラスに留まることにした。
アメリカの場合、入学に関する年齢は決まっていても、本当に入学させるかどうかは先生からの進言と、最終的には親の判断で決まる。だから一年生といっても一年早く来る子もいれば、下の子のようにキンダーガーデンを二年やってから来る子もいるのだ。
今、下の子は、担任はチン先生、副担任はナンシー先生のクラスにいる。
この学校はモンテッソーリの考えに基づいて運営されているので、小さい子は3歳から大きい子は6歳まで一クラス一緒になっている。
下の子は小さい子が困っていると助けるし、ちょっと困ったときでもあまり怒らずに辛抱しているというのだ。
「一回、お弁当を持ってお昼にきてちょうだい。彼はね、とってもよく喋るのよ。それに、彼が喋っていること、みんな理解できてるの。面白いことを言って、みんなを笑わそうとするんだから!」
私にとっては驚きだった。
下の子が英語で喋っている! それも、みんなを笑わせている!
「彼はね、本当にいい子なのよ。禁止されていることは絶対にしないし、人が嫌がることもしない。とっても紳士なのよ。それでいてね、私たち先生を助けてくれるの。お手伝いするって、テーブルを拭いたりしてくれるんだから。」
この秋にあった先生との面談では、先生たちは報告するたびに目を潤ませていた。
言葉も出だした、図形の名前も覚え始めた。地図は大好きで、今、国名も覚えようとしている。これから簡単な計算もやらせるつもりだ。先生の報告は続く。
数年前、同じ教室で小さくなりながら先生と面談していたときと大違いだ。
こちらまで、涙が目に溜まってきてしまう。
「この前、日本の歌を歌ってちょうだいと頼んでみたの。そうしたらね、みんなの前に出て、私の腕をぎゅうって握って、歌いだしたの。もちろんみんな、拍手したわ。 Beautiful!」
下の子が歌ったのは、「兎と亀」だった。
チン先生は言う。
「引き出そう、引き出そうって思っては駄目。子供にはちゃんと時期がある。自分が興味を持ったら、ぐんぐん伸びていく。私たち大人がしてあげられるのは、与えること。与えれば与えるだけ、伸びるのよ。
お手伝いしてくれたら、「ああ、嬉しい、ありがとう」と与える。そうすれば、また、今度は戻ってくる。
だから、引き出そうとしないで。与えてあげて。」
ずっと教室で問題児だった下の子は、たくさんの手に支えられて笑顔を取り戻した。
今日も学校で習った太陽系の話を聞かせてくれたし、一つ一つの英語で言う惑星の名前が日本語でなんと言うのかを聞いてくれた。
「ネプチューンとプルートはね、太陽から離れているからとぉっても寒いんだよ、ママ。」
彼はぶるぶる震えるジェスチャーを交えて話してくれる。
そんな彼は今まで酷いお箸の持ち方をしていたのだが、「ママ、お箸の持ち方教えて」と聞きに来た日以来、自分で直そうと努力して、持ち方もずいぶんと正しく持てるようになってきた。
下の子は、亀だったのかと思う。
急激な環境の変化で甲羅に手足を縮込めてじっとしていたのだろう。
そんな彼にずっと時期を待ちつづけ、愛情を注ぎ、彼の些細な成長に大喜びしてくれる人たちがいた。それが彼にとってどれだけの励みになっただろう。
私一人では、縮こまっていた彼を甲羅から出してやることはできなかったと思う。
どれだけ、私は彼に暖かく係わってきてくれた人に感謝しているか。
その感謝を言葉に出すと、彼女たちの答えは必ずこうだ。
「私は彼を誇りに思うわ。こんなに自信もつけて。そう変わってくれたことが私にとって、一番の喜びなの。私が、役に立てたことがね。」
亀の歩みはのろい。
しかし、どんなにのろい歩みでも、歩きつづけることはきっと何か結果に結びつくと、下の子を育てていて感じ取った。
どんな子にも、きっと伸びる時期がある。早い子も、遅い子も。
でも、どんなに行き詰まったとしても、下の子を支えてくれた人たちのように、私も、いつか伸びるんだと信じてこれからも自分の子供たちのことをずっと見守っていきたいと思っている。
もちろん、超特急で飛ばす、兎でなくってもいいから。
ゆっくりと、自信を培って、ゆっくりと、歩いていってくれればいいと。
2000/12/04