年賀状




私が結婚してはじめて出した年賀状は、笑えるものがあった。

1990年の1月に結婚して同じ年の12月には娘を抱いていたのだから、1991年の私の年賀状を手にとって、赤ちゃんの名前まで書かれているのに飛び上がった人はきっと何人かいるに違いない。娘の出産予定日は11月28日だったので年賀状もゆっくり印刷して出せると高をくくっていたのだが、出産は遅れに遅れ12月16日に生まれた。せっかちな性格のせいで産院入院中も、早く赤ちゃんの名前も決めて早く年賀状を印刷してと、私が夫を急かした。そのせいだろうか、出来上がってきた年賀状の自宅の電話番号が、こともあろうに夫の会社の電話番号になっていた。

1月になると、日本からの年賀状が舞い込み始める。

こちらに来てから私はクリスマスの時期にクリスマスカードを出すようにしているので、そのお返事にと年賀状を送ってくれる友人がいる。 夫と友人から届いた写真付きの年賀状を見ては、「ああ大きくなったね」だの、「貫禄ついたね」だのとコメントしては、写真での友人やその家族との再会を楽しんでいる。

私はクリスマスカードには、いつも短い近況報告をプリンターで印刷したものを同封している。そこには、私の目から見た今年一年の家族の出来事が書かれている。
夫にも同じように近況報告を書いてもらう。二人の共通の友人なら、二人分の近況報告を入れることもある。それぞれの友人には夫か私のものを入れていく。
このレターサイズの近況報告以外に、カードには送る友人のことを思い出して、数行書き込むようにしている。仕事を頑張ってやっているだろうな、母親として子育てに専念しているだろうな、など、その友人のことだけを考えて書くのだ。自分の時間であっても、その友人のことだけを考える時間を作り出すことが、もしかしたらクリスマスカードや年賀状の本当の意味なのかもしれないななどと考えながら。
ここで最後に、私の子供を可愛がってくださった方へは、子供たちの写真を同封することにしている。
ただし、友人へのカードの中には、近況報告を入れないものもある。
悲しい別れを経験した友人の場合には、自分の家族のことを話さずに、ただ、相手のことだけを思ってカードにメッセージを書く。どう受け取られるかはわからないが、それが離れて暮らしている私にできる、精一杯のことだと私には思えるからだ。

さて、まだ自分自身が独身だったとき、子供の写真を大きく載せた年賀状をいただいても、今ほどは感動しなかった。自分が子供を嫌いだったせいもあるのだろうが。あ、大変そうね、それだけで終わってしまった。
結婚式の写真が入っている年賀状に至っては、両親から「ああ誰々さんも結婚したのね。あなただけがいつまでもお嫁に行かなくて」という台詞とともに始まる説教に変わっていくので、両親の前では見たくない年賀状だった。 しかし、写真を見ながら、「いい人と結婚したじゃない、おめでとう、いっぱい幸せになってね」と、素直に喜べた。ただし、両親と一緒にいない時に限っての話だが。

でも、今こうやって結婚をし、子供を授かってみると、やはり結婚式の写真や子供の写真を年賀状にする気持ちはよくわかる。

心の半分はよくわかると言いながら、それはとっても自己満足じゃないかという考えも、実は私の半分にはある。
私の友人で、赤ちゃんが欲しいのにも係わらず、赤ちゃんが授からないカップルが数組ある。
こんな友人に、私の子供の写真を送ったらどう思うだろう。
実際、近況報告は年賀状やクリスマスカードでは行ってきたけれど、子供の写真を彼女たちには送らなかった。気の遣いすぎかもしれないが、送られた写真を手にしたら、彼女たちの心に自分への悲しさや責めの気持ちが生まれそうで怖かったのだ。もしかしたら笑って受け取ってくれるかもしれないが、もしかしたら苦しめるかもしれない。私は送らないほうを選んだ。
そんな友人の中には、「子供たち大きくなったでしょう? よかったら写真を送ってね」と言ってくれる人もいる。きっと、笑って受け取ってもらえるだろうと解釈して、次の年からはその女性には写真も同封するようにした。
しかし、彼女から直接言ってもらわなければ、私は写真をずっと同封しないままだっただろう。一人一人の友人の気持ちを確実に把握するなんて、無理だ。しかし、自分の持つ少しの想像力で相手の気持ちを汲み取ろうとする努力を放棄したくない。そんな気持ちを感じてもらったときに、素直に、「ありがとう」や「私はこうして欲しいの」と言ってくれた友人の気持ちと行動は、きちんと受け止めたいと思うのだ。

自分たち夫婦や家族を中心に考えて年賀状を出すのか、あるいは受け取る人のことを考えて出すのか、これは人によって意見が別れるところだろう。一年に一度だけのご挨拶になってしまう年賀状やクリスマスカード。私はいくつかパターンを用意するというやり方を選んできた。それが、今の私の中での結論だ。
でも、受け取り手としては、相手は私のことを考えながら書いてくれていることや、いつもの生活からそれだけの特別な時間を割いてもらったということを考えながら、読みたいと思う。

理由は、相手の喜びを、喜びとして、素直に共に喜びたいからだ。

今年舞い込んだ年賀状の中に、大きくプリントされた赤ちゃんの顔があった。
「やっと、授かりました」
嬉しそうなコメントに、私の顔は緩んでいく。
結婚10年目にして授かった赤ちゃん。きっと弾けるような思いで書いてくれたんだろう。写真を見ながら、夫と何度も「よかったね」を繰り返す。

そう、あまり堅苦しいことは言わずに、一年に一度、友人の幸福のおすそ分けを有難くいただくのも、いいものじゃないですか?



2001/01/13


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