親知らず顛末記




とうとうこの五年越しの悪縁から足を洗った。
などと言うと、とても物騒に聞こえるが、アメリカに来る前から懸念事項だった親知らずを、やっと抜いたのだ。

アメリカに来ることが決まって、夫の会社から家族全員の健康診断が言い渡された。もちろん私も、内科と歯医者に行かなければならなくなった。結果は、親知らずを抜くようにと言い渡された。しかし、親知らずを抜く予約を入れた日、いつも昼寝をしてくれるはずの息子は寝ずじまい。そのまま歯医者で息子をお腹にのせたまま抜歯してくれと頼んだのだが、それは不可能だと断られ、そのまま親知らずもいっしょにアメリカにやってきたのだ。

さて、アメリカは医療費が高い。もちろん、歯の治療費も高い。だから保険会社がかなりの治療費を負担しなければならなくなる。そこで、保険会社は保険に入っている人に対し、六ヶ月ごとの歯科検診の費用を支払うという制度を作った。保険に入っている人はこの制度のおかげで検診に半年ごとに行くわけだから、虫歯も軽い段階ですぐに見つかるし、治療もほんの数回ですむ。また、私のように歯医者が大嫌いで治療するときにはたくさんの治療費を払わなければならないような人間が少なくなるのだから、保険会社としても効果のある制度なのだろう。
この定期検診のおかげで、私も今までの五年間で虫歯の治療をしたのはたった一度だけだった。それも、軽いものだったので、型など取らずに白いシーラントという物質を埋め込んで即日で終わりだった。

だが、何回目かの検診のときに、とうとうその日はやってきた。なんと、歯茎から顔を出していた親知らずに、虫歯ができてしまったのだ。

「抜いちゃったほうがいいですよぉ」という軽い先生の声を聞きながら、怖さで手に汗が滲んでしまった。

アメリカでは、医者の専門家がとても進んでいる。
通常、歯を治療してくれる歯医者を決める。これが、歯の神経を抜くとなると、神経を抜く歯医者に出向いていかなければならないし、歯を抜くとなると、抜歯専門の歯医者にかからなければならない。日本なら一箇所で治療してくれるはずが、いちいち別の医者に予約をとって行かなければならなくなる。もちろん、矯正している場合は矯正歯科に行くことになるのだ。

いつもお世話になっている歯医者から紹介状をもらい、口腔外科の先生のところでまず予約をとった。一回目の予約は、Consultationといって、親知らずの状態や神経の状態をレントゲンで見て、どの歯を手術するかの話し合いがもたれる。
まず、レントゲンを撮る。立ったままで360度、全角度から撮れるという機械だった。それから、どんな手順で手術が行われるかの情報をビデオで見せてもらう。それが終わると、レントゲンを見ながら手術前のチェックが行われる。神経とあまり親知らずが近いと、手術後、舌が味覚を感じなくなってしまう場合があるらしいのだが、そんなことが起きないか、事前に手術前に点検をするのだ。

その次に病院へ出かけるのは、手術当日。後はもう一度、手術後、切開した傷がちゃんと治っているかのチェックに出かける。

さて、Consultationに出て驚いたのは、全身麻酔で抜歯するということだった。
アメリカの麻酔技術は世界一と聞いたことがあるが、ただ歯を抜くだけで全身麻酔とは、私にとって信じられなかった。
麻酔といっても、軽いもので、点滴で浅く眠らせる。眠っている時間も四十五分と短いと説明された。

麻酔を使って抜歯をするメリットはあるのかと、先生に聞いてみた。
先生はこう話してくれた。
部分麻酔麻酔だけで親知らずを抜くということは、患者に対してとても精神的苦痛を与える。患者は力を入れる。第一、いくら部分麻酔をしても目が覚めているのだから、リラックスして欲しいといっても無理だ。その結果、たくさん出血する。切開にも時間がかかる。歯を機械で粉砕するのにも、もちろん時間がかかる。その結果、手術の傷がどうしても麻酔で眠っている人のものよりも大きくなってしまうし綺麗に切開できない。出血も多くなる。
全身麻酔をかけずに手術をすると、まるで頬袋に食べ物をつめこんだリスのように頬が腫れあがる。何が自分に起こっているかを一部始終見て、感じていることによる体のショック反応が、頬を腫れあがらせるのだ。そして、大量の出血と切開は痛みを呼び、痛みから体内で分泌される物質は手術後の傷の治りを遅くさせる。
全身麻酔で抜歯すると患者は苦痛を感じない。そのおかげで、傷も早く治る。だから、今、アメリカでは抜歯は全身麻酔でするのだ。

私は相当怖がりなので、全身麻酔のおかげで親知らずを抜く辛さを知らないでいられるとは、なんてラッキーなんだろうと思いながら、先生と握手をしてオフィスを出た。

さて、手術当日。先生のところには八時半に入る。
麻酔をかけるのだから、前日の午前十二時以降、何も飲んだり食べたりしてはいけないといわれた。服装はゆったりとしたものを着るように指定されている。点滴を受けるので、半袖を着ていかなければならない。あとは、手術の1時間前に先生から処方された、「リラックスする薬」をテーブルスプーン一杯の水で飲み、点滴を受ける右腕には、皮膚の感覚を鈍くさせる効き目があるという処方された軟膏を塗り、その上から大判のばんそうこうを貼った。

まずは、手術の行われる部屋へと入る。
血圧や体温のチェックと、風邪気味でないかなどの問診がある。やはり、手術は雑菌が繁殖してはいけないので、部屋全体はひんやりと寒い。私は寒がりなので、フリースのカーディガンを羽織っていても、ぶるぶると震えていた。
先生が手術室に入ってきて、握手をした後、なんと冗談を言い始める。
点滴を指差して、「今朝の朝食ですよ!」といわれたときには、ぷっと噴出してしまった。でも、こういったところで冗談を言ってもらえると、不安な気持ちも少しは和らぐものだ。
手術中に体が動いてはいけないからと、乗っている台に脚を固定する。
あとは、手術をする先生が麻酔のための点滴針を右手に刺してくれた。
鼻からは呼吸を確保するための酸素マスクがかけられる。

そこで、意識は全くなくなった。

名前を呼ばれる。看護婦さんの声だった。
「気分はどうか」と聞かれ、首をふってみせた。
手術台から、同じ高さのストレッチャーに寝たままでいいから移るように言われて、そろそろと動く。ストレッチャーで手術室の外にある回復室まで移動する。
まだ、頭がぼんやりしている。
口の中には脱脂綿が入っている。どうやら、部分麻酔も効いているらしく、顎のあたりの感覚がない。看護婦さんに、「手術終わりましたか?」なんて聞いてみたけれど、看護婦さんは私が何を言っているのか、三回目でやっと理解してくれた。
ドアの閉まった手術室からは、親知らずを機械で削っている音が聞こえてくる。次の人が処置を受けているのだろう。
「だいたい十時すぎになったら、帰れますからね。脱脂綿はきっちりと噛んでいてくださいね。」と看護婦さんから言われる。
この後、だいたい五分おきに、手術をしてくれた先生、受け付けの女性、別の看護婦さんと、たくさんの人が、何か異常がないかと見に来ては声をかけてくれた。

この日、家に帰ってから食べていいと言い渡されたものは、ジュースやスープそしてヨーグルトやゼリーといった流動食だけだった。食べ物のカスが切開した傷に入り込むと、感染症を起こしてしまう。この日は歯磨きも、うがいも許されなかった。あとは、手術前に処方された抗生物質と痛み止めを飲みつづける。
病院からは、脱脂綿の束と、飲むだけで必要なカロリーが摂れる飲み物などがセットになっている袋をもらった。脱脂綿は、出血が収まるまでは清潔なものとどんどん取り替えるようにと指示された。この脱脂綿、織り方が特殊なのか、細い繊維などがいっさい傷口につかず、とても使いやすかった。
次の日からは、一日二回、塩でうがいをすることが義務付けられる。あとは、だんだんと普段の食事に戻ってもいいとのことだった。

どれだけ頬が腫れあがるだろうかと心配していたが、自分から言い出さなければ他の人から気付いてもらえないぐらい、全くと言っていいほど腫れなかった。確かに手術を受けたのだから、抜歯した部分が痛んだり、ずきずきと疼くこともあったが、痛み止めを飲めば堪えられる程度の軽いものだった。

三日目、自分の舌でそっと傷口を確かめてみると、切開した部分がちゃんと縫われていることもわかった。

手術後二週間は肩こりにも悩まされたが、日本で親知らずを抜いた人の話を聞くたびに、アメリカで、全身麻酔で抜いてもらえたのは、とても幸運だったと思える。
意識のあるまま、部分麻酔だけで、親知らずをハンマーで叩き割られ、ヤットコで出されるのは、想像もしたくないほどだ。

日本では、医療の中で、歯科だけが独立している。
このままの状態では、歯科の世界に麻酔が入り込むのは、無理がある。歯科も、体を治す一つのジャンルとして医学部の中に組み込まれれば、歯科と麻酔科を勉強することによってアメリカと同じようなサービスを提供することも可能だろうが、今の制度では現実化させるのは無理だろう。

英語で患者のことはpatientと言う。形容詞なら「忍耐強い」という意味だ。ラテン語の「耐え苦しんでいる者」から来た言葉らしい。確かに患者は処置を受けることで、耐えなければならないのは事実だ。でも、患者が痛みや苦痛を辛抱することは当たり前だと思うのは危険ではないか。それを少しでも和らげる医療もあっていいのではないかと、アメリカで治療を受けるたびに思うのだ。

一本は抜いたものの、あと、まだ三本残っている私の親知らず。
どうせ歯茎から出てくるのであれば、せめてアメリカにいるときにしてくれと、祈るような気持ちでいる。

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こちらは手術前に渡された薬一式。小さな袋には「リラックスする薬」と、注射には点滴の針を刺すときに痛みを感じないように皮膚を鈍感にするという軟膏が入っている。
手術後に渡された袋に入っていた脱脂綿やアメリカ版カロリーメイトのような飲み物と薬。紙には抜歯後の注意事項がぎっちりと書いてある。
筒型の容器に入っている抗生剤一種類と痛み止め二種類は手術前に処方箋をもらって薬局で買った。
どうしても痛いときにだけ飲むようにと処方された薬は、生まれて初めて幻覚を見るほどきつかった。アメリカの薬は、日本人にはどうやら強すぎるらしい。



2001/04/26


このエッセイはInfo Ryomaのコラムに書き下ろしたものです


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