私の住んでいる住宅地は、昔は一面の果樹園だったそうだ。住宅が建てられたのが今から35年ほど前。今ではその頃に植えられた樹が大きく枝を張っている。そんな住宅地を歩いていて嬉しくなるのは、樹齢200年はするだろう松の樹などに出会えることだ。果樹園を作ったときも、住宅を作ったときも、古い樹は切り倒されずにそのまま住宅の前庭やバックヤードに残るように町が設計された結果がこれだ。ときにはそんな樹にツリーハウスといって子供の遊び小屋を作っている家もある。大きなブランコを吊っている家もある。
こちらでは、新しく住宅地を作るとき、今までの大木はそのまま残して造成しているのをよく見る。
アメリカに来てすぐに、樹齢300年はするアメリカンオークを伐採するという記事が新聞に載った。この地域でも最古の樫の樹だった。以前から病気にやられ、何度も薬を入れたりして生き返るようにと懸命な活動が続けられていたのだが、もうこれまでの寿命だということで伐採が決まったのだ。樹のまわりに建った住宅や人への被害を考慮しての伐採だった。伐採の話が持ち上がってもなお、この樹を新しい住宅地に移植したいという業者もいた。しかし残念ながらあまりにも樹に力がなかったため、移植は無理と判断され、切り倒された。しかし、その実はボランティアによって集められ、次の世代の苗木を作り、それを植えていくという文で記事が結んであった。
私の住んでいる地域は砂漠のような気候だ。朝夕は冷えるが昼間は暑い。雨季には山や丘は緑に包まれるが、乾季の夏になると全ては茶色になってしまう。住宅地でもどこでも、緑を維持しようとすれば人間がお金をかけて水を撒かないと、全ては枯れてしまう。
こういったところに住んでいると、昔幕末の日本を見たフランス人青年が、「神は不公平だ」と言った意味がよくわかる。それは、努力によって緑を維持してきたヨーロッパの人間にとって、天の恩恵だけで茂れる緑を手に入れられるアジアの自然の中で暮らす人々が、その恵みの有難さを認識しないでいることへの腹立ちの言葉だったに違いない。ヨーロッパではメソポタミアやギリシャの昔から、森を伐採した後数年は作物が作れるが、風が土を吹き飛ばし太陽が土を炒りつけて不毛の土地にしてしまうことで文明が滅びていったのを、身を持って体験してきたのだから。
それに比べると、日本人は緑に対しても、自然に対しても危機感がない。日本なら数年放っておけば空き地はまるでジャングルのようになる。梅雨と台風がもたらす雨の恩恵に他ならない。日本語に「自然」に相当する言葉が昔なかったのにも頷ける。
たとえば、上野の山がどうしてあのまま残ったのか、ご存知だろうか。
文明開化を推し進めようとした新政府は、大規模な大学の建設を考えた。今の東京大学だ。実際の実務にあたったのは石黒忠悳という、鎖国時代にオランダ語で医学を勉強した人だった。彼は徳川家の所有地だった上野の山に東京大学を建設するつもりで、緻密な設計図まで書いていたのだ。このとき、彼は帰国間近のA・F・ボードインというオランダ人の医者に会に行き、上野の山に二人で出かけてその場で設計図を見せた。きっと、石黒は自信満々だったに違いない。しかし、ボードインの意見は、即刻このプランをつぶしなさいというものだった。
当時東京にはすでに100万人の人が住んでいた。ボードインは、都市には森林が必要だということを石黒に説いた。ヨーロッパの場合には、自然に森が無い場合は、人間が人工的に都市に森を作っていく。上野の森を丸裸にして大学を作るのは間違っていると言ったのだ。
石黒はボードインに言われて、初めて、公園という考えが自分になかったことに気が付く。そして考えの柔軟な石黒は政府の人を説得して、本郷にあった加賀藩の屋敷と富山藩の藩邸の二つを借りて東京大学を作ったのだ。
彼らのおかげで、東京という都会の中にも大きな森が残ったのだ。
しかしその片方で、樹は切られた。
新宿区百人町に樹齢200年以上の大ケヤキが立っていた。残念だが、立っていたと、過去形でお話しなければならない。
50年前に建築された都営団地の建て替えのために、このケヤキの樹は切り倒された。住民には「残す」と説明され続けていたはずなのに、どうやら初めから伐採してから都営団地を建てる予定だったらしい。伐採をするという事実を反対住民に言い渡してからは、都はケヤキを残すと建てられる住宅の個数が減るという説明をした。これは、反対する住民に対しての圧力ともとれる。その後、都はケヤキを保護するための移植について話し合うという内容の念書を交わしたのだが、その念書を反故にし、ケヤキは伐採に反対する人たちに隠されるように伐採期日である2001年2月2日の前日、それも夜にひっそりと根こそぎ倒された。
金さえあれば、何でも買えると思っているのだろうか。
樹齢200年のケヤキの樹ですら、金さえ出せばどこかで買えると思っているのだろうか。
都民のためにある機関なのに、どうしてきちんとした話し合いも説明もせずに、都民に嘘をついて実力行使しようとするのか。
人は大地無しでは生きていけない。人は木々がなくては、生きていけない。
人には手がある。だからこそ、道路も作り、家も建てられる。しかし、以前からそこに住んでいた、あるいは根を張っていた動物や植物と同じ大地に共存しようという謙虚な考えなど、捨ててしまったのだろうか。
50年前、東京都はケヤキを切ることなく団地を建てた。
今の東京都は、200年という時の流れを一瞬にして自分で創れるとでも、思っているのだろうか。
ただ言えることは、もう、そこには大ケヤキはない、と、言うことだけだ。
2001/05/08
関連サイト
大けやきの会 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9222/keyaki/
大けやきの会 WEBSITE http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7781/
瀬音の森 http://www.iijnet.or.jp/FREEHAND/kuroo.html