2001年9月11日




私は、この日のことを決して忘れないだろう。

前代未聞の大惨劇が起こったとき、ニューヨークとは3時間の時差があるカリフォルニアの人々はまだ眠りについていた。私もその中の一人だ。
6時55分発のスクールバスに息子を乗せるために朝食を用意し、弁当を詰め終わったときに電話が鳴った。まだ6時半ごろだっただろうか。日本にいる義理姉からの電話だった。そこで、初めてニューヨークで起こったテロについて知ることになった。電話で話したのは夫だったため、私自身は切迫したものは感じなかった。

しかし、ニューヨークに住む友人のことが気がかりで、ニュースを検索し、その画像に驚いた。映画のワンシーンではなく、本当に罪のない人たちが巻き添えになっている。旅客機が突っ込み、燃えているビルの映像を見たときには、足に震えがきた。
友人は確かマンハッタンに通っているはずだ。指先が震えて、うまく以前のメールに入っていた彼女の電話番号を見つけ出すことができない。無事を祈りながら、短いメールを一通打った。

子供たちは、通常どおり学校へと向かっていった。
息子の学校では緊急の場合、親が引き取りにくるまで子供が空腹を満たせるように、スナックやジュースを入れたジップロックを教室に置いている。あの封を開けることがないようにと祈りながら、息子には、「何かあったら、先生の指示に必ず従いなさい。最悪の場合、ママは歩いて迎えに行くけれど、必ず行くから、安心して待っていなさい」と言い聞かせて送り出した。
学校からの書類では、地震や何か異常事態があったときには、救急車や消防車を優先して通行させるために、自動車で子供を迎えに行くことは禁止されている。最悪の場合は、テレビの前に夫がダイエットのために備え付けている自転車に乗っていこうと心に決めた。
娘が登校するときにも、同じように先生の指示に従うことと、学校で私が来るのを待つように言い聞かせた。
「ママ、次はここらへんが、ドッカーンってなるわけ?」と聞かれる。
返す言葉を失ってしまった。

家に帰ると、先ほどメールを出したニューヨークの友達から、返信が届いていた。
「今日は在宅勤務だったの」との一行にほっとする。
後でわかったことなのだが、彼女のオフィスは倒壊したWorld Trade Center内にあり、数週間前に在宅勤務を月曜日から火曜日に切り替えたばかりだったそうだ。もしも切り替えていなかったら。「私は死んでいたでしょう」その言葉に、背筋が凍った。

テレビからは、惨状を伝える画像が刻々と流されていた。
画面の一番下のテロップには、地元の情報が表示される。
「サンフランシスコの学校は、避難。サンマテオは通常どおり、しかし放課後以降のサービスはなし。サンノゼは、通常どおり。しかし、早引きをさせる。」
画面を見ながら、子供が通う学校区で何か動きがないかをチェックする。親として、英語ばかりで流れる情報であっても、その中から自分の子供に関係する情報を見つけて、必ず子供を守り通さなければという一心だった。
サンフランシスコでは、市庁やオペラハウスなど、人が集まるところはことごとく閉鎖されたというテロップが出る。
夫からは、携帯電話をいつでも取れるように手元に置いておいて欲しいとのメールが入った。
いつもなら、トラックや、ヴァンや、自家用車が行き来するはずの道路も、まるで息を潜めたかのように静まり返っていた。

そのうちに、ニューヨークからの画像ばかりでなく、警察や市長のメッセージが流れるようになった。
「冷静に行動してください。特に、911(日本の110番にあたる)にはよほどの緊急事態でないかぎりは、電話をしないでください。私たちが冷静であることが、今一番求められていることなのです」

ニュースのテロップに出ている情報が本当かを確かめるために、学校のオフィスに連絡を入れる。オフィスの女性は、またかという声で、「今日は平常どおりの授業を行います。下校も同じ時間です」と返事を返してくる。
サンフランシスコは標的になるかもしれないが、少し離れているこの地域はテロのターゲットにはならないだろうという判断だったのだろう。

しばらくして、日本語補習校の連絡網を通じて、アメリカ総領事館からの連絡事項が通知された。

子供を迎えに出かけたとき、街の表情がいつもとまったく違っていることを感じた。
どの家も、自動車が2台から3台は止まっており、人々が家で待機していることが伺える。
公園でも、道路でも、人も自動車も全く通らず、学校に子供を迎えにいく親だけが自動車を運転しているといった感じだった。
いつもなら、庭仕事をしている人もいるのだが、自分の家の庭にさえ出ていない。
カーテンを閉め、息を潜めているようだった。
いつもは、笑顔と自由の国アメリカが、息を殺し、自由を奪われたような1日だった。

本当に、今回のテロでは、たくさんの方が巻き込まれた。飛行機に乗っていた方、ビルで働いていた方、被災した人を助けようとして二次災害に遭ってしまった消防士や警察官、たくさんの命が奪われた。そのことには、憤りを感じる。
私たちが家族や愛する人を亡くしたときに流す涙と、同じだけの温かさをもっているはずの人間が、どうしてこんなことをするのだろうと思うと、哀しくて、涙が出てきてしまう。
今、アメリカは報復処置を考えているとニュースで流れている。
確かに、テロの犯人は制裁を受けるべきだと思う。
しかし、憎しみの拳に、憎しみの拳をたたきつければ、延々と憎しみが生まれるだけなのに。
同じ人間なのに、どうしてこんなにも殺しあわなくてはならないのだろうか。
どこかで、これを断ち切れないのだろうか。

今日、まだアメリカではほとんどの旅客機が運行を見合わせた。ニューヨークの金融関係も、早くても今週の金曜日にならないと再開のめどはたっていないという。
そんななか、ワシントンD.C.はアメリカの威信をかけるように今日から政府関係のオフィスを再開した。

アメリカという国は強いと感じる。人々は、できるだけ平静でいようと努力し、各州の消防士や医療関係者、あるいは軍が救助活動の援助へと出かけている。
東海岸から離れたこの地域でも、献血の呼びかけがニュースで流れている。輸血の血が足りないとニュースで流れれば、2時間も3時間も列を作って待ちながら、献血をする人がいる。
また、亡くなられた方を悼むのか、あるいはアメリカがテロに屈しないことを表すためか、星条旗を掲げる家が増えた。
でもできるなら、その強さを、握りこぶしを作る力に変えないで欲しい。
「もう、殺しあうのはたくさん!」西海岸の小さな街で、私はそう思っている。

最後になりましたが、このテロで命を落とされた方のご冥福と、悲しみに打ちひしがれたご家族の方がその苦しみと悲しみを乗り越えられますように、心からお祈りいたします。
もう、二度とこんなことが起きませんように。

2001-09-12



このエッセイはInfo Ryomaのコラムに書き下ろしたものです


読んだら押してみてくださいね。






もどる